大島愛子さん取材で聞いた追加の件。
古山陶器店に遊びにきた特攻隊員たちが遊んだのは、田舎の少女たちの知らないトランプの「ツーテンジャック」など、ハイカラなゲーム。また、紅白二組に分かれてジェスチャーを演じたという。若い隊員たちに気遣って、神州隊の隊長(久木田)は、あまり顔を出さず、上級士官たちも、別の家に行った。遺書がわりに出し歌最後の手紙に、謝辞を述べて当てたホストファミリーの家の名前の中に、丸川という名も出てくる。朝日座の興行師で、芸妓置屋の布川実きみ夫妻の家だ。
午後から布川和子さんにインタビューしに行った。
御主人の雄幸さんが、朝日座社長として興行の仕事を一手に仕切っていたが、考えれば和子さんが跡継ぎ娘なので、布川家の歴史は、全般部分について和子さんにかかわる家族史である。要所要所で夫がコメントを加えるカッコウだったが、本日は和子さんを中心に、仕事をさせてもらった。自分の家庭のように若いときから出入りしていた私にとって、いよいよ集大成の時期に入った。終戦69周年の夏。あと1ネンは、戦時にかかわる南相馬の姿を、さらに発掘し、記録したい。
石神の渡辺滝蔵(左前列)は、内村鑑三に私淑するめずらしい農村の初期のクリスチャンである。進歩 的な雑誌「改造」などを購読し、聖書の聖句を土間の黒板に記して農事に励む市井の農村インテリだった。子供時代の雄幸を外套に包み隠して政治演説会につれ て行くなど革新的な社会性のある人物だった。本家の兄弟(左後列)は渡辺一成元原町市長の父親。
布川雄幸は、石神の渡辺滝蔵の息子として誕生。相馬農業学校を卒業して、海軍へ。呉で訓練を積み、戦艦長門に乗り組み上等兵に、横須賀の鎮守府で潜水艦乗りに転じた。
「わたしは特攻要員だったんですよ」、あと半年戦争が続いたら、震洋、伏龍などの終戦間際の特攻兵器で命を捨てたかも知れなかった。戦後、宮城県農業試験場の技師になったが、映画好きが昂じて給料のほとんどを名作鑑賞に費やした。朝日座の経営者に気に入られて、跡継ぎの和子さんの婿になって、朝日座の後継者に。こんにちの国登録文化財指定まで、歴史的建造物として守り通してきた。原町および相馬地方で唯一の映画館芝居小屋が残ったのは彼の功績である。
布川和子の話。
「山本、西山、小野寺さんらの将校さん四人が来ていました。少尉や中尉さんです。あとから押田さんとか。わたしは二歳で、子のない布川の家に幼女に来たので、戦争中は義母のきみが特攻隊の人たちをもてなすのを身近で見ていましたし、19歳のころですから私が食事を作りました。きみさんは、どこから手に入れたのか馬肉なんかも入手しましたね。味噌漬けにして、あれはおいしかった。義母は「やり手」といわれたほどの女丈夫で、布川義雄とは当時珍しい恋愛けっこんだったようです。親が許さずに、それに反発して東京に出て看護師の仕事もして、看護の技術もあったようです。家に帰ってからしばらく籍は入っていなかったらしいが一緒に暮らした。当時の朝日座は街の旦那衆十二人による組合制の経営で布川実が株主の一人で支配人となり、戦中は,門馬永松が社長館主となり、朝日座は布川実支配人と興行師神谷豊次郎戦後になって引き継いで株主たちに配当を支払って共同経営になった。その後神谷が手を引いて布川がやるようになった。
こんなに和子さんから詳しく立ち入った内容を聞いたことはこれまでなかった。
雄幸さんが風呂で転倒して頭から血を出した、という突然の電話が来たのは今年3月のこと。あれからどうしたか訊ねたら、その後も、意識を失って卒倒することが多くなったという。少しずつ老化が進んでいるらしい。もはや、これ以上、新しく情報を雄幸さんから聞ける状態にないだろう。たまたま夫人の和子さんから聞く丸川の特攻隊への受け入れの件について聞くために、青森の自衛隊員の菅野賢司君が来福したので、5月の連休以後、原町を再訪問した機会だったが、やはり女性のほうが、同年齢でも、しっかりしている印象だ。このまま彼女が雄幸さんを看取る格好になるのか。夕方には長女の恭子さんが帰省してくるという。
朝一番、7時半に福島の自宅を出発して、午前9時から八牧美喜子女史の手持ちの写真や書簡なんどを寄贈された先の博物館でダンボール7箱を調べ、ほぼ全容が見えてきた。
そして、ユニークな存在だった原町で最も殷賑をきわめた高級割烹の「魚本」の山本勘太郎の一家にも八牧家のコレクション・アルバム写真で会えた。
勘ちゃんこと、山本寛太郎さんは、原町の割烹魚本の主人で、結婚して二人の子供もいる、いかにも男らしい体格の男性だった。
若き時代のわが母が、とうじの原町郵便局長の奥様が、それまでになかった原町で最初の華道「古流」を教えてくれるというので、同級生の古山愛子さんとともに習いに通ったという。そこでの珍しい男性の生徒が「勘ちゃん」だった。
千家古流とは
茶道を世に広めたことで名高い偉人、千利休(せんのりきゅう、1522年- 1591)の長男である
千道安(せんのどうあん、1546年- 1607年)が茶花としての道を開き、
その流れをくむ400年以上続く歴史深い華道の流派。