園田陽一郎
園田陽一郎 宮崎県 陸士53期 飛行第65戦隊 昭和20年4月20日没 沖縄
飛行場攻撃。第二中隊長。
平成7年4月19日 中日新聞
血痕にじむ「筆記板」故国で眠れ 26歳絶筆 米国博物館から返還
太平洋戦争末期の昭和二十年春、沖縄戦で死亡した旧日本陸軍パイロットが身に着けていた「筆記板」と呼ばれるメモ帳が、展示先の米国の博物館から、名古屋市在住の米国人の仲介で返却されることになった。戦死した同僚の名前や心境がつづられた筆記板からは死を覚悟しながら敵地へ乗り込んでいく兵士の気持ちが伝わってくる。貴重な形見はパイロットの命日に当たる二十日に、名古屋空港で親類の人に手渡される。
このパイロットは、陸軍、飛行第六十五戦隊に所属していた宮崎県小林市出身の園田陽一郎大尉=当時(二六)。
当時の記録などによると、園田さんは昭和二十年四月二十日、沖縄本島の米軍飛行場攻撃のため、鹿児島県知覧基地を飛び立ったまま行方不明に。米国兵の証言では、園田さんの戦闘機は被弾し同島内に不時着。降りて来たところで撃ち合いになり、死亡したとされている。
筆記板は「戦利品」として米軍が押収した。長さ約十五センチ、幅約十センチ。ボードには「園田大尉」と名前が刻まれている。アルミ製の枠におさまった黄ばんだメモ用紙には、血痕もにじんでいる。
園田さんは、この筆記板を太ももに着け、操縦席で走り書きをしたとみられ、飛行ルートや戦死した同僚の名前、心境を断片的につづっている。
「戦局危急……大君為忠死、斉藤、牛山……以下体当たり」と日本軍劣勢の中、次々と死んでいく仲間をしのぶ。そして「負ケルナ、65FR(戦隊)、生レハ別死ハ一緒」と締めくくり、「勝利」を最後まで信じつつも、死を覚悟していた様子がうかがえる。(略)
筆記板をこれまで所有していたが、当時米軍海兵隊員だったケネス・ウオルシュさん(七八=米カリフォルニア州。昭和二十年六月、沖縄に赴任した際、同僚から記念に受け取り、昭和五十三年に米バージニア州の海兵隊博物館に寄贈した。
返却は、ウオルシュさんの自宅を訪ねたことがあるもある会社員、ダニエル・キングさん(三〇)=名古屋市千種区=らが仲介役となって実現した。ウオルシュさんは「戦後五十年。国の為に命を捧げた園田さんのためにも、遺族の所で保存してほしい」と話していたという。
園田さんの両親、兄弟は他界しており、筆記板は甥、昭治さん(五九)が受け取る。
牛山静さん(妹)記事提供。

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