二式複座戦闘機と整備兵双襲と呼ばれた二式双発戦闘機「屠竜」と整備兵

原町飛行場の整備兵の思い出
原町区馬場 中野目利次 軍属として原町飛行場に勤めました。
大正十五年生まれ、八十一歳
私は1926年(大正15)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一歳になります。
石神第二高等尋常小学校(のちの国民学校・現在の小学校)を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業高校)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあちこちで働きました。私は草鞋を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よくゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
家の近くに飛行場ができて
昭和十四年四月、私の家のすぐそばに雲雀ヶ原飛行場ができ、翌年「熊谷飛行学校原町分教場」として開場します。(飛行場の名称は次のように変更。「三重明野飛行学校教育科第一中隊飛行場」「茨城水戸飛行学校第三中隊飛行場」「茨城鉾田飛行学校第二中隊飛行場」)。また飛行場建設のため、突然、軍の厳しい命令で移転させられた農家が六九戸もありました。
記録係として終戦まで働く
進学できず友人の群れからはぐれたような私でしたが、家族のすすめでこの原町飛行場に勤めるようになったのです。軍属(軍人ではなく軍に所属する文官や文官待遇者)として勤め、同時に十四、五人が採用されました。上の人からの指示で、整備班の事務室で記録係をやることになったのですが、小学校卒の十二、三歳でしたから、何をやるのか、何が何だかさっぱりわからず、出入りする人は大尉や准士官の偉い人ばかりで、「言われたことをやれ」と命令され、本当に閉口しました。できてもできなくても、とにかく訓練飛行機の識別マークを見て、どういう飛行機か、教官や学生の誰が乗り、いつ地上滑走し、飛行時間などの飛行演習の記録を一生懸命やりました。一機ごとの飛行機の履歴簿に、走行距離も部品の好感などもしっかり記録しました。
記録は毎月整理し搭乗日誌に清書して、分校長に提出し認印をもらい、本校の部隊長に送ります。でも、戦況も悪くなり、特別攻撃隊に行くようになると、記録も二義的になりました。とにかく私は、昭和十五年六月から、終戦の昭和二十年八月十五日の後、残務整理で十月頃までの五年間、原町飛行場に勤めたことになります。
飛行場には全国からの学生が五十人以上いました。私のいたところは第二格納庫と第三格納庫の間の飛行班という部屋で、今は亡くなりましたが気象班の青田信一さんと机を並べていました。
学鷲(大学生)から勉強を教わる
一番覚えているのは、上官から冗談に「とうへんぼく」とか「えへらえへら」といわれたことです。小学校卒だけで何も分からず、その「とうへんぼく」が「まぬけ」だという意味だということも、初めは知りませんでした。
私は自分が小学校卒だけで惨めな学歴と自覚し、学鷲(がくしゅう)と呼ばれていた大学生の訓練兵から勉強を教えてもらいました。「教程」という教科書を使い、数学や国語や歴史を、毎日一時間ぐらい教えてもらったりしました。
一本杉に衝突した飛行機のこと
昭和十九年十月のことです。原町飛行場に、名古屋だか日立かどこからか、ひとり乗りの飛行機が迷って飛んできて着陸しました。パイロットは降りてきて「ここはどこですか」と聞きますが、演習指揮官から「何を言ってるんだ!」と激しく怒られ、殴られました。でも原隊に戻るために飛び立たなくてはいけない。ところがその飛行機は新型機で、使用燃料はオクタン価九二という種類で原町飛行場にはオクタン価八七という種類しかありません。そこで整備班長の田辺武雄大尉が自ら、ノズルの調整をしてやりました。
でも原隊に戻ろうと飛び立ちますが、筒外爆発を起こし旋回し、押釜の杉本さんの屋敷の裏にあった「一本杉」に激突死大破します。パイロットは亡くなったと思います。私は記録係で、その事故直後の写真を持っていましたが、野馬追の里博物館に寄贈しました。
杉本さんの家も大きく破損しますが、家には女の赤ちゃんがいちこの中に入っていましたが、奇跡的に無事でした。
特別幹部候補生を勧められるが
私は五年間も軍の飛行場にいて、兵隊検査で甲種合格していましたが、兵隊にはならないで終わりました。でも一時、特幹(とっかん)と呼ばれていた特別幹部候補生にならないかと勧められましたが、父が四二歳で召集されてフィリピンに出征し、家には祖父と母と兄弟だけでしたので、私は応募しませんでした。兵隊にならなくて良かったと思います。
激しかった八月九・十日の空襲
原町は終戦間際の昭和二十年八月九日と十日、ひどい米軍の空襲がありました。
近くの原町紡織工場も飛行場もずたずたに攻撃されました。飛行機は掩体壕にかくれたりしました。
飛行機は掩体壕にかくしたりしました。松の木に監視隊を作っていましたが、敵機が空襲してきて逃げ出した人めがけて機銃掃射で激しく狙ってきます。
私も竹やぶに逃げますが、これが本当に恐ろしかった。竹薮は安全なようですが、とんでもない。機銃掃射の弾が竹に当たってはね返り、ぴゅうぴゅうと音を立て、どこに弾がいくか分からないのです。
十日の午後、雷雨になり、敵機は海のほうに飛び去り、空襲は終わります。
終戦の頃の飛行場には、寄せ集めの部品の不完全な飛行機ばかりが三十機ぐらい残っていました。
戦後になって進駐軍がやって来た時、意にそうように飛行機を並べておきましたが、その粗末な飛行機に米兵は呆れ返っていました。
戦争は良くない。こんなひどくて悲しい思いは、二度とさせたくないと思っています。

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