原町陸軍飛行場 佐々木充整備兵の手記
営内居住
私ども整備見習い士官十数名は、学生舎に落ち着き共同生活に入った。部屋の真ん中にだるまストーブがあり、暖を取った。演習から帰って来てダルマストーブを囲み、皆で今日の出来事を語り合った。これが大いに勉強になった。
昭和二十年正月用の餅は、年内に新春三ヶ日朝分として配給になったが、殆ど年内に食べてしまった。元旦の朝、残った餅を全員で小さく切って分けて食べた。19年末には各人、林檎十個、バター1封ずつ配給になった。全員よく食べた。新年になってから、外部から通勤して来る軍属の人から餅を分けてもらった。将校集会所で三度の食事をした。昼食は演習があるので遅れがちだった。また演習用の飛行機がそろわない時は隊長より叱られた。
三島見習士官、吉野習士官は間もなく他の部隊へ転属した。私は、演習中怪我をし、高熱が出たので医務室に入室したことがあった。医務室には上野軍医大尉、他衛生兵が三、四人いた。薬をつけた後、ガーゼ、包帯の代わりに餅の着物のボロを煮沸したものを使用した。四、五日後退室した。
休日には飛行場の近くを良く散策した。若い人が野良に行った後、「いちこ」に入っているかわいい子供と留守番の年寄りを見かけると、なんとなく微笑ましかった。休日を前に知らされている時には、父親(昭和19年9月死亡)の実家(仙台市泉区、戦前は七北田村古内)に母が疎開していたので面会に近くの農家の一室を借りた。真っ暗で駅まで行くのに苦労したようだった。
勤務
整備隊の私ども見習士官に対する直接の指揮者は、田辺中尉(後大尉に進級)であった。田辺中尉より各見習士官に勤務を命じられた。また時々勤務の変更を命じられた。
当初原町航空隊に勤務した時は、地上勤務の全体を佐藤少佐が指揮していたが、後に整備隊は横山少佐が整備隊長に就任した。
私は当初、陸士五十七期乙種学生(地上兵科より航空隊転科)の訓練担当、器材班、国華隊(昭和20年4月1日より5月28日出発まで)を担当し、20年6月はじめ五十七期乙種学生訓練のため、青森油川飛行場勤務を命じられた。青森での整備隊の指揮官は、石橋見習士官と私と二人であった。
器材班長時代
ある時、器材班長を命じられた。器材班は第一格納庫より50メートル程離れた長岡寄りにあった。班長は私、佐々木見習士官、その下に吉木伍長、福田軍属、広田軍属等がいた。器材班は戦闘整備に必要な部品を備え、飛行機の飛行に支障がないようにした。
各機付は整備に必要なものを器材班にとりに来た。当時の飛行機は潤滑油の漏れが多く点火栓の交換が多かった。練習用機のエンジン部分に鉱油、ひまし油等使用潤滑油の漏れが書かれてあった。着陸の際、尾輪の脚を折ることも度々あった。
ある時軍属の人に召集がかかり、福田軍属は軍曹になった。吉木伍長は今まで福田、福田と言っていたが、翌日は福田軍曹殿に変わった。一方福田軍属は召集されたお陰で家から通勤できなくなったので残念がっていた。
飛行機訓練中、B29の編隊が飛行場の上空を南方から北方へ飛行して行ったことがあった。敵に制空権を奪われ残念に思った。