Robin L. Rielly 2010 “Kamikaze Attacks of World War II: A Complete History of Japanese Suicide Strikes on American Ships, by Aircraft and Other Means” McFarland & Company, Inc., Publishers, Jefferson, North Carolina, and London.
ロビン L. リーリー 2010 『第二次世界大戦の神風攻撃、飛行機もしくはその他の方法によるアメリカ艦船に対する日本の自爆攻撃に関する完全な歴史』マクファーソンアンドカンパニー。
p.290
6月10日、レーダー阻止地点No.15Aは、地点指揮艦William D. Porter, DD579,ウイリアム・ポーター、Aulick DD569,駆逐艦アウリック、 Cogswell DD651, 駆逐艦コグズウエル、 LCS(L)揚陸支援艦66と86がパトロールしていた。ウイリアム・ポーターは、この地点の戦闘指揮艦を務めていた。2機からなるレーダー阻止パトロールが船の上を旋回し、212海軍航空隊と314海軍航空隊からの志願飛行隊の8機のコルセアが近くを飛んていた。8時23分、314飛行隊の分隊が1.5マイル先にVAL(99式艦上爆撃機)を認めた。撃ち落とそうとしたが無駄だった。銃火をくぐり抜けて駆逐艦ポーターの船尾に突入した。飛行機は海中で爆発し、激しい動きで駆逐艦の船尾を持ち上げ、また叩きつけた。C.M. Keyesキース准将は、後に次のように書いている。
「その爆発が飛行機内で起こったのか、脱落したかも知れない爆弾の内部で生じたかははっきりしないが、爆発が後尾のエンジンルームもしくは少しその後ろのほとんど船の真下で起こったと信じられる。ここに書いてあるすべては、ほんの数秒の間に生じたのだ。この飛行機が7000ヤードになるまでレーダーに触れなかったというある僚船の失敗、さらにこの船が全くレーター照射をしていなかったという過ちについては、後にLCSの一つから報告があった。そのLCS揚陸支援艦は、飛行機の一部を見つけたが、紙と木が広く飛行機の製作に用いられていたことがわかった。発見された部品の記述は、99式艦上戦闘機が布製の操縦席を有していたという事実により説明されるだろう。」
以下略
p.291
LCS(L)122(揚陸支援艦)は、駆逐艦ポーターが死の瀬戸際にあった時救助にあたっていたが、まもなく、それ自身が攻撃の対象となる運命だった。Richard M. McCoolマックール中尉に指揮され、Ammen DD527(DDは駆逐艦), Aulick DD569, Cogswell DD611, LCS(L)19, 86, 94とともに持ち場でレーダーによる監視任務にあたっていた。次の日(6月11日 訳者注)、18時45分、戦闘指揮艦、駆逐艦Ammenが距離42マイルで、侵入してくる敵機を発見、諸艦は戦闘準備についた。2機のVal(99式艦上爆撃機)が現れ、19時に船に向かって飛んできた。両機とも十字砲火により撃ち落とされた。一機は水中に落ちたが、2機目がLCS(L)122の艦橋に突入できた。
p.292
指揮官のマックール中尉は爆発と怪我で意識を失った。彼はすぐに意識を取り戻し、怪我していたにも関わらず、多くの乗組員を救助し、クルーを集結した。マックールは消火を指揮し、それが船を救った。最終的に船が安定を取り戻した時、彼と多くの怪我をした乗組員は、船から病院船に移送された。11人が亡くなり、29人が負傷した。LCS(L)86が12を牽引して港に戻った。その日の彼の勇気とリーダーシップに対し、名誉勲章が与えられた。
リバティー船Walter Colton ウオルター・コルトンは、5月29日に沖縄に着いた。6月11日、中城湾(なかぐすくわん)に停泊していた時、1機のVal(99式艦上爆撃機)に襲われた。最初はLSD6(揚陸艦)に向かったが、高度を上げてウオルター・コルトンに突っ込んできた。艦船からの激しい銃撃にさらされ、その舳先を通り過ぎたが、旋回して船の艦橋に向かってきた。艦橋はそれたが、3番起重機にぶつかり、舷側に突っ込んだ。その地域にいた他の船からの対空砲火がコルトンに当たったが、ひどい損傷は逃れることができた。船の損傷は軽く犠牲者はなかったものの、何人かの乗組員が負傷したと記録されている。
翻訳:梶原洋