原町での慰霊会でのこと。小川少尉のご両親が原町を訪ねてきたときに、鈴子の血書の話が出たことは、八牧美喜子と高橋圭子も聞いた。
鈴子ちゃんの血書の話を聞いた時、わたしは愕然とした。彼女がそれを書いたとは、私もいて共に書いたのだから。あれは忘れもしない二十年の三月二日金曜日、亡父が私と従姉妹の鈴子ちゃんを連れ、中田さんの大好きなお酒を大切に持って、振武隊のお三人に逢うべく鉾田飛行場へ行った時のこと。あいにく飛行機の受領のためか十日ほど九州方面へ出向中で逢えず、私達は人気のない兵舎の破れガラスの出窓に、工面して持参した白布を拡げ、今聞けば白羽二重のよし)小指の先で真ん中に日の丸、その両側に一字ずつ必沈と書いた。そして彼女は左下の角に鈴子と署名した。出撃の時の鉢巻のつもりで、それは、戦いに征けない少女の精一杯の誠心であった。
鉾田の町に一泊し、翌日夕刻まで待っても逢えず、と諦めたその時、思いがけず藤井隊長さんと小川少尉が本隊に一時戻られお渡しできたのだった。(ガリ版冊子の「花吹雪」コピーより)
(時折空路原町に来られて親しかった川辺少尉に会えた)、話しつつ、私の胸は締め付けられるようだった。あの時の一途さが甦り、涙がこぼれた。あとから信ちゃんのはからいで鈴子ちゃんの妹が、姉の写真を届けてくれ、お母さんは嬉しそうにしておられた。(欄外の加筆部分)
高橋圭子は後日、関西に旅行し、振武45隊の唯一の生存者宮原さんを訪ねたあと、海を渡って徳島県石井町に小川家を訪ね、仏壇の曳き出しからお出しくださったこの血書を見た。赤い日の丸の真上に祈の文字もあった。
注)信ちゃん
青田信一 青田洋装店主人。原町陸軍飛行場の昭和15年の第一期の雇員。気象班に配属。終戦迄地元原町に勤務。