原町陸軍飛行場関係戦没者慰霊顕彰会によって公刊された「あかねぐも」第一集には何人かの航空士官が残した日記が紹介されている。例えば広森達郎日記では昭和十八年六月二日から十一月二十四日まで。翌十九年一月六日から七月二十八日までは、杉本正治日記によって、かなり克明に飛行場の様子を読み取ることができる。

交流

昭和19年四月十六日。日曜日。晴。
石神信田沢部落の演芸慰問を受けた。これは、先日石神村小学校の創立一周年を記念して、部落の出征兵士の遺族を慰問するための演芸大会があり、一等賞になったという信田沢の人たちが、ぜひこんどは飛行場を慰問したいといってきたものだ。
なんと人情の厚い土地だな、と杉本は思った。
この飛行場というのも、土地の人たちが有志こぞって熱心に誘致したものだと聞いた。
実に週に一回か二回は遠近を問わず、慰問にやってくる。その慰問たるや、村民こぞってやってくるのだ。
このあいだなどは、新田村からの慰問があって、干し柿、餅、時価にして数百円に及ぶ食料を届けてくれた。この他にも洗濯や、修理や、今日のような演芸の慰問がある。
 杉本は、こうした土地の人たちの厚意を、驚きの目でみている。
信田沢部落の人々の、今日の演芸会に対する熱演は、実のすばらしいもので、演芸会に費やした費用は四百円を超す、と聞いて、二度びっくり。
 感激した杉本は日記に克明にこのことを記した。

 是ク村民挙リテ同一目的ニ向上一致団結セル様ヲ見、望外ニ感激シ。実ニ日本ハ強シ、東北ノ軍隊ハ強シト茲ニ悟ル

 誠日本ノ維新ハ是ノ如キ都離レタル日本古来ノ伝統ヲ固く 々 継承セル地方ヨリ興ルハ
如何ニ文明開化トナルモ是ノ如キ人情味アル気風ハ永久ニ伝へ度キモノナリ。

 杉本正治は、昭和十八年七月三十日午前九時過、大甕村雫しどけ部落海上で訓練中、墜落し殉職した。搭乗機種は双襲だった。(二式双発戦闘機)

彼は詳細な訓練記録を書き、自己の精神修養の過程を生々しく記し、また土地の人々との交流についても言及している。

 十九年六月三日。土曜日。晴。
 杉本は、原町国民学校を訪問し、児童たちと遊んでいる。「純真無邪気誠二愉快ノ極ミ。良寛様ノ心持ニ聊カ触レタルモノヲ感ズ。

六月四日。日曜日。晴。
 小学校児童慰問ニ来ル。五ノ四。中野屋子供常会連中並ニ中村ヨリ四五名、感謝感謝ナリ。子供常会組ハ昨日中野屋ニテ遊ビシ時常会決議ニテ実演。愉快。後、乙種学生ト面談愉快ニ遊ビ飛行機見学、写真撮影等行フ。我ガ寝室ニテハ再ビ常会組ノ遊戯。広ク大ラカナル気持ニテ凡テヲ愛スベシ。」

七月二日。
 この日、杉本は少尉となる。同日、教官皆川少尉から、任官にあたって注意を受けた。

 その中の一つに、
国民学校児童ト懇意トナルハ可ナレドモ、余リ親シクナリ其ノ家ニ遊ビニ行クガ如キハ余リニ好意ニ甘エ、(見習い士官なるが故に相当なるもてなしを為す)経済上其他事情ヲ推察セザルハ不可。世ノ裏ヲ見ルニ、遊バレシ家ハ得意ナルモ、付近ノ家、児童ト心境ニ重大ナル影響ヲ与へ大二シテハ国民学校教育ヲ破壊ス。自制スベシ。」というものがあった。
「右に就きて感り。
嗚呼吾謝てり。童心に帰るを名とし余りに稚心に流れたり。児童の童心に傷けざる程度の交わりを為し、又交わりを薄くせん。他に求むべし。吾も亦一介の(男児)士たり。

七月十二日。水曜日。曇時々雨。
野馬追祭を見物。

七月二十八日。金。
 「遺言書記シ終ル。亦言フベキ無シ。
 吾、茲ニ死ス。    日々死ナシ。」
 こう書き終わり、以下は余白となっている。

 翌々日、訓練中に殉死した。はたして事故だったのか。永遠の奇しき謎である。

「昭和史への旅」昭和58年3月1日。

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