陸軍特別操縦見習い士官 四期生(特操四期)の記録 井澤健

原ノ町は、福島県の太平洋岸に面した小さな町で、その当時は福島県相馬郡原ノ町と呼んでいた。(現在は原町市から南相馬市に)この町の郊外雲雀ヶ原に原町飛行隊があった。

昭和十九年秋から終戦まで、ここで訓練を受けた若いパイロットたちが、九州の鹿屋・知覧などの前線基地へ配属され、特攻隊として次々に帰らざる人となって行った。ここでは、99式軍偵察機(改造されて単発襲撃機となっていた)により訓練をしていたが、そんなことは知る由もない私達が各地から集まってきた。顔を合わせると、前橋で一緒だった連中もいるし、他の教育隊に入った人もいて、総勢三十名が訓練を受けることになった。

ここでは五月一日から七月末日までの三ヶ月いることになる訳だか、偶然にも私の出身中学(米子中学校)の二期先輩の陸士出の大尉に機内でお会いした。大櫃茂夫という人だが、少年飛行兵の隊長として同じ教育隊にいる人だった。その人からある日「お前たちは、いずれ特攻要員となる筈だから、しっかり訓練に励めよ」と耳打ちされた。とたんに体がキューんと引き締まるのを覚えた。

ここでは機上射撃・通信・航法・爆撃など同乗者としての特訓を受けることになる。まず地上器材の取り扱い、射撃・通信。航法の基礎訓練を受け、後半は飛行機に搭乗しての実戦訓練に移った。短期間に多彩な科目の学習を受ける訳だから忙しい。しかし飛行機に乗れるとあって、みんなが奮い立った。六月初めにいよいよ飛行機に乗ることになった。憧れの服装意志粋が支給された。作業服を脱ぎ捨て、飛行服に半長靴、飛行帽のめがねをきれいにふきあげてピストに集合した。

三十名が六班に分れ、五名ずつ搭乗することになった。練習機は97式重爆撃機だ。ただ操縦は許されない。機上では始め、射撃の練習から始まった。いよいよ搭乗順がまわってきた。

「敬礼。小西見習い士官他四名、第三号搭乗機、科目並行同行、敬礼」と申告して練習機に走る。操縦桿を握っているのは特操一期の0先輩だ。やはりまぶしく見えてうらやましい。轟音を残して離陸する。飛行場の建物がたちまち小さくなり、無線塔をまわった機体は訓練海域である松川浦へと急ぐ。機上から眺める地上の風景は美しい。太平洋の青い海も、白い波頭も今まで見たこともなくきれいだ。

機上から吹流しに向って順次射ちまくる。白い光を発して曳光弾の痕跡が尾を引く。エンジンの響きが快い。

今はこんな文が書けるが、その時は一生懸命だ。地上に下りると緊張の連続で、ぐっしょり汗をかいていた。

ここで初めて空中勤務者徽章の佩用が許され、航空糧食や搭乗手当てが支給された。胸のマークもさることながら、初めて口にした航空糧食の美味しかったことが忘れられない。キャンデー・チョコレートなどの甘味料の詰め合わせのほかに、ブドー酒までえついている。その上食事の内容まですっかり変ってしまったのには驚かされた。

白いご飯に肉類までえたっぷりだ。とても娑婆では考えられないごちそうだった。学生隊舎は粗末な木造の平屋建てだが、一室に三名ずつ入り、ちょっとした下宿屋だ。畳敷きだからよけいに嬉しい。訓練は厳しかったが、訓練外は自由な生活が許された。食事入浴などは将校用室でとり、昼食は隊長以下将校全員の会食もしばしばで、よく上官の五分間訓話があって将校としての心得を教えられた。

この原ノ町で強い印象を受けたのは、ここで訓練が終わった若人が、つぎつぎ飛行服に日の丸をつけた特攻隊員となって飛び立って行ったことだった。隊員や飛行場近辺の人たちはみなが整列し、旗や防止を千切れるばかりに振る中を特攻機が動き始める。神々しいまで引き締まった彼らの横顔と、機上でゆれるマスコット、爆音を遺して雲間に小さくなって行く機影を追いながら、いつまでもあふれる涙で立ち竦んでいるだけだった。

この年の夏は冷夏だった。

東北地方特有のあの濃霧ガスが立ち込め、原町のシンボルであった無電塔の半ばまで低くたれこめるガスのために、飛行訓練が中止になることもしばしばだった。飛行訓練が中止になると、また地上での無線通信や航法の演習が始まる。特に苦しんだのが無電の送受信だった。思うように指が動かず目標の速さでキーが打てない。また戸惑っているうちにどんどん送信されてくる。暗号の乱数表を使っても文にならないことがしばしばで、幾たびとなく指導教官にどやしつけられる。また空中射撃もつらかった。機上から曳航されている吹流しめがけて撃つのだが、地上に下りて吹流しを調べて見ても自分の色の弾痕が一つもないときの情けなさに、やり切れない悔しさに臍をかむことも多かった。広報の計算の難しさや一瞬のためらいも許されない爆撃の照準などなどの訓練を一通り終えたのが七月末で、心もとない力ながら一応過程を終了したものとして各戦隊に配属になることとなった。うち十五名が新京と平城にあった第二および第五航空軍司令部付を命ぜられ、八月二日に原町を出発することとなった。また命令書を胸に満朝へと旅立つのだが、ここが最後の訓練基地になろうとは夢想だにしなかった。人情こまやかな原ノ町、隊を去る前に見学した相馬野馬追の勇壮な行事、訓練の合間に海水浴、さまざまな快い思い出を胸にしてこの町をあとにした。

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