中村富一氏という人物が我が家を訪問してきた。自家用車のBMWから、夫人と令息が降りてきた。「わたしは原町飛行場でお世話になった中村の兄です」という。昭和15年、原町の郊外の雲雀が原の一角に、熊谷陸軍飛行学校の分教場が存在した。中村富一氏は、同分教場の第一回生徒として卒業し、戦場に散っていった中村久男という兵士の御遺族であった。
五十七年一月から、手紙で全国の原町飛行場の関係者へ、あることを問い合わせていた。当時手元にあったのは、昭和15年に発行された「原町陸軍飛行場」第一回修了生たちのアルバム巻末の、住所録だけだった。
 おぼろげな戦前の地名から、現在の地名に近いものを選び出しては、片っ端から投函した。
 問い合わせの内容は、主に関係者の生死についてであり、生きて居れば戦後をどのように生きて現在どうあるのか、死者ならばどのように死んでいったのか、という点についてである。
 
町ぐるみ慰霊 弟は幸せ者

 中村氏は、連絡のついたいぞくのうちで、原町を訪問した最初の人となった。
 青田信一氏や八牧通泰氏といった慰霊顕彰会のお世話役の方々に紹介し、郊外の公園墓地に案内道すがら、中村氏は感に堪えぬようにつぶやく。
 「海の見える、すばらしい土地ですね。原町は、こんな土地で、町の人みんなに慰霊していただいていたなんて、弟もさぞかし喜んでいることでしょう」
 中村久男准尉が、原町飛行場で訓練を受けたのは短い期間であったが、開設されたばかりの飛行学校は印象的であったにちがいない。彼は空に憧れた少年の魂のまま、巨大な戦火にのみこまれていった。
 敗色濃い昭和19年2月4日、ニューギニアのウエアークで本土に帰還する参謀を同乗させるために着陸態勢にはいった時点で、アメリカ軍戦闘機3機の攻撃を受け、飛行場の南3キロのジャングルへ火災に包まれながら墜落した。
 昭和59年9月。清潔な新築住宅のならんだ国見町団地。その区画は、かつて広大な草原であった。古くから「雲雀が原」と呼びならわされたこの草原に、陸軍の飛行場が存在した。ここから鳶だって、戦火の中に殉じた者は、判明するだけでも270名を超える。空襲によって死亡したものは14名。徴兵されて戦病死したものは市内から一千余名。また、戦時中の栄養事情の劣悪さのために死亡した付鳶とや、乳幼児の数は、かつて調査されたこともない。

1984年9月16日 おはようドミンゴ 10月号 第5号

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