慰問劇「万寿姫」

 兵隊さんとの出会い
 私の家族と交流のあった陸士五十七期生が原町飛行場に来たのは、昭和十九年三月二十一日雪の夜であった。十月末の卒業まで七ヶ月訓練を受けた。中学四年あるいは五年から陸軍予科士官学校へ進み、航空士官学校を卒業と同時に原町に来た。年齢十九歳から二十一歳の青年達であった。
 鈴木さんの場合、名古屋明倫中に学び医者になることを目指していたが、中学四年の時、陸士へと志望を変えた。学校で先生の勧めがあったのではないかと思う。
 私と兵隊さんとの出会いにも学校がその役を果たしている。
 十九年五月頃、国民学校二年生の私は、先生に飛行場の兵隊さんに慰問文を書かされた。
 「ヘイタイサン ニクイ鬼畜米英鬼畜ヲヤッツケテクダサイ」
 と書いたハガキは、小山さんという兵隊に届けられた。二年生の私はこう書くのが当たり前のことと日頃から親にも先生にも教え込まれていたのである。アメリカは敵だと思い込まされていたのである。アメリカは鬼だと思い込んでもいた。恐ろしいことである。
 続いて六月二十二日には飛行場慰問に連れて行かれ、「われは海の子」の合唱「兵隊さんゴッコ」「万寿姫」などの劇を見せていた。この日のことを、私はこんなふうに書いている。
 「ワタシノイモン文ハ小出サントイフ少尉サンニアタリマシタ。ソシテ返事ガキマシタ。ソレカラヒコウジョウヘイモンニイッタラ、先生ニ蓉子サン第一寝室トイフヘヤデ小出少尉ガマッテイルカラ行キナサイトイワレ行クト、京子姉サンガイマシタ。鈴木少尉トイフ人トシャベッテイマシタ」
 京子は二番目の姉で六年生。この日「万寿姫」の頼朝役。先生は六年生と兵隊さんたちを並べて対面させ、その子の家族と交流するよう仲介したのである。小出・鈴木少尉はこうして」我が家に遊びに来るようになった。第一寝室以外の五十七期生もよく訪れ、夕方から夜の帰隊時間までにぎやかであった。休日には朝から見え、読書する人、子どもと遊ぶ人、姉や従姉と談笑する人、家族に手紙を書き、私の父母と何やらしんみり話す人、さまざまであった。夜はお酒を飲みよくしゃべっていた。
 十五歳で家を出て軍人としての教育を受け家族と一度も会っていない人もあったから、家族の味、家庭の味を求めていたのであろう。原町を第二の故郷と呼び、私の母を第二の母と慕ってくれた。私たちもお兄さんのつもりでなついた。わずか四ヶ月の短い日々であった。
 故郷の家族の人に申し訳ない思いもするが、家族は酒を飲みタバコを吸う息子の姿は知らず、十五歳の姿のままの息子でアルバムに残っているのであろう。
 十月末には卒業となり、三十二名(六ヶ月の間に三名が殉職)はそれぞれの任地へと発っていった。我が家も常連の兵隊の送別会をもった。外泊許可の夜、姉の「明日はお発ちか」の踊りの途中「やめてくれ。圭子やめろ!」とドサっと仰向けに倒れたその目から一筋涙が流れていたのを私はそっと見ていた。男の人の涙、兵隊さんの涙を、私は驚きと悲しみの心でしまいこんで四十六年経ってしまった。この少尉は、「武人に恋もなし、愛もなし」と日記に記して特攻として死んでいった。
 五十七期生三十五名中、二十二名が戦死。二十二名中十三名が特攻として戦死している。

若松蓉子「だいこんの花」(福島県退職女教師の会)より

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