今回は日本の技術力についての話題だが、ハヤブサ、といっても小惑星イトカワのかけらを地球に持ち帰った探査ロケットのことではない。
2月16日の東北初の原町飛行場の空襲では、65戦隊の隼は遂に迎撃に飛立つことがなかった。一式陸軍戦闘機「隼」の新鋭機Ⅲ型の飛行65戦隊が原町で訓練のあと沖縄に移動して、戦力は空になって、残ったのは陸軍99式軽爆撃機が練習できる実戦機だったため、タイ空軍から留学してきた二人の航空士官が乗れたのは、この機種だった。昭和20年3月のことである。
隼の精確な迷彩までほどこした塗装の木製の実物大模型が運び込まれた。
掩体壕の配置され、いかにも飛行場らしく空中からみれば米軍のスパイ偵察で戦力の充実された基地に認識された筈だった。
木製の実物大の模型戦闘機の記憶について語る町民が多いのは、じっさいこれを目撃していたからだ。
2017年5月20日の朝、仙台の元原町飛行場の整備軍属だった新関芳信さんからの電話では、「塗装は上だけだった。上空から裏側の見えない下側は木地のままで塗られていなかったが、寸法も形も塗装も本物そっくりでしたね」と回想する。
相馬農業学校の生徒で、滑走路整備の労役に駆り出された少年たちは、すぐそばでこの模型を見て居るし、なかには配置の人力に命じられた者もいたからよく知っている。8月の空襲で米軍艦載機の空爆で破壊された飛行機は実物だけで、木製のダミー機は識別されて残ったのだと回想する老人がしばしばいて、さまざまな文集にもそのように書いてあるのだが、当時の整備将校だった横浜の会計士佐々木充さんは「いやいや、模型も実物もすべてやられたんです」と答えて居る。
よくもあの物量のアメリカと4年弱も戦闘したものだと思う。日本人の精神力「大和魂」は、たしかに物量をしのぐ威力を発揮した。しかし、国の主導者たちの価値観で戦争指導に国民を引率していった先は、「張子の虎」を並べるという戦法だった。
新関さんは、国華隊の2機が沖縄の米軍輸送艦リバテイシップに突っ込んで残骸の中に非金属の木と紙があったという記述に「そうだったかなあ」と疑念を感じたという。
特攻の最後のころには、練習機の赤トンボまで駆り出され、木製の人間爆弾ともいえる特攻専用の「剣」という機種され製造された。白河女学校で作られた記録も拾った。原町飛行場で飛ばす予定もあって、搭乗させる待機特攻隊員もそのことを回想している。
木と紙、という素材は、米兵の印象に強かったのだろう。99式襲撃機にしても、全金属製ではあるが、座席や内部の詰め物には木材や紙もあったのかどうか、ほかの整備軍属に問い当たってみたい。
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