昭和二十年二月十六日空襲

昭和二十年二月十六日は、よく晴れた日であった。私はたまたま書類作成のため学生寮の宿舎にいたが、大きな音がしたので隣室を見たら黒板が打ち抜かれていた。仲間の見習士官の話だと、飛行場の被害は大したことはなかったようだ。隣接する原町紡織、原町農業学校の被害は大きかったようだ。

二月十六日、たまたま今西六郎師団長が原町飛行場に来場されており、将校全部が格納庫に集めての訓辞の中で「戦に勝つためにあらゆる手段を講じること。責任は私がとる」と言われたことが、今でも印象深く残っている。師団長と特操見習士官、整備、武装の見習士官と記念撮影をした。師団長が当時、いかに我々見習士官に期待していたことがわかり、頑張らないといけないと思った。

私の小学校の友人堤正久中尉の話だと。麻布中学校時代先輩であり、幼年学校時代同期であった師団長のご子息陸士五十六期の今西昭二氏は、地上部隊で戦死されたそうである。

宿舎二棟建設

部隊本部の後方に二棟の宿舎が出来た。部隊本部寄りの一棟は陸士五十八期生宿舎、一棟は幹候十一期整備、武装の各見習士官の宿舎であった。アパート式の簡易住宅で三尺四方の入り口、一間の押入れ、四畳半の畳の部屋であった。

「いのち」の中に書かれた八牧通泰氏に依れば、昭和二十年三月二十日修武台(航空士官学校)を卒業し、鉾田飛行学校の分校である福島県原町に二十名が配属、直ちに99式襲撃機の訓練課程に入った。四月十二日原町を発ち、渡満するに先立ち、襲撃機はほとんど生きて還れぬ特攻隊要員であったので、家郷へわかれのため約一週間の特別休暇が与えられ、この宿舎に居た期間は短期間であったと書かれてあった。

「下士官整備員」より

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