雲雀野・今昔

(一)飛行場の沿革と其の周辺のこと
・陸軍原町飛行場は昭和15年開設以来終戦まで、熊谷・明野・水戸・鉾田各飛行学校の分校として陸士54・55.56・57・58期、少飛13期・65戦隊等の訓練場であった。戦闘・軽爆・襲撃の機影が雲雀野の空を翔けり19年秋~20年初夏には特攻を練成・送り出した。
・雲雀ヶ原は地元では別名野馬原とも原とも略称され正式の字名ではない。
・戦前、原の一部には畑農家があったが飛行場設置に先立ち各部落に移転した。
・当時原町駅前(営林署の土場)より阿武隈山中まで材木運搬用の林用機関軌道(トロッコ道)があり、その一本は原紡南の道に敷設、原の中を馬場に抜けていたのだが飛行場のためトロッコ軌道は「新道」の外側に敷き直された。(人の話)
・飛行場正門に至る「新道と呼ばれた道」は在来の馬場街道の南に造られた軍用道路であった。乾いた一筋の砂利道を軍用トラックが、朝は街の指定の辻に出て待つ営外居住者を乗せて運んだ。
・19年3月21日、赴任の雪の夜、57期35名が無蓋車でふるえながら運ばれたのは、夜森公園下を南西にぬけてこの軍用道路であった。
・のち外出には近道を考え、格納庫あたりから真っ直ぐ原紡わきへ草原を突っ切ることを覚え、外出日には颯爽と将校マントで、又夏の夜公然と抜け出ては浴衣がけで盆踊りにと町へと通った。
・一面の草原に白い滑走路が伸びていたが「長岡」とよばれた丘陵が迫って離陸の視界をせばめていたと聞く。
・19年迄は国道の西一帯を使用していたが、ついに襲った空爆防備のため20年には野馬追祭場地の本陣山裾まで掩体壕が出来、この年の春より中学生・女学生の奉仕で、滑走路や掩体壕の偽装工事がおこなわれた。
・20年2月には軍需工場であった原町紡織工場が空襲されて動員中の学徒ら4名が死亡、8月には駅・機関庫等が爆撃されて6名、自宅でも1名死亡(計11名)した。職域奉公の姿であった。かつて特攻が別れの挨拶をし記念撮影して出て行かれた駅前広場には此の頃大きな防空壕が掘られていた。
・当時の街は家並みの広い道路も砂利道の田舎町、でも朝は浜からリヤカーでとれたての魚を売りににも来、人情あつい農家から町へ食糧も流れて「草木もなびく相馬」そのものの町であった。(二)行動半径その他(但し57期一次乙学について)
・別紙地図中、行事・遠出等の月日は手元のアルバム・ノート類よりぬき出したもの。個人行動は除きグループ。同じ寝室・全員参加の事に限り記載した。
・相馬等へは汽車で行ったものの近在へはあの時代何処へ行くにも徒歩、鉄山への茸狩りは士校以来の消耗だったという。
・56期生2名が18年秋、小高町岡田で殉職された折、部落篤志家により立派な慰霊碑が建立され爾来永年供養をかかさず今日に及んでいるが、19年には57期生が「先烈の跡を拝す」と参詣に赴いている。
・57期生御殉職の雫・大磯の浜には外出日に生前を偲びグループで訪れている。
・「同期通信15号」の「花吹雪座談会」にも語られているが小学生の慰問が縁で各家庭に配属?
されたのだったが、その分布状況? やグループ名・人名については後日にゆずる。
(三)戦後・後日談
・兵どもが夢の跡」である営舎は終戦後相馬農業生徒の手でていねいに取り壊しされ、空襲で損壊した代わりの校舎に生まれ変ったと聞く。
・部落の人々は今も此処に鍛え征き逝った人の勲を忘れず神社を祀り、飛行場正門の石柱や格納庫跡のコンクリート床や側壁を緑の中にのこしてくれている。
・飛行場は戦後開拓農家に解放され主に「たくあん大根」の産地として一面の畑地となり、一望、森と野菜畑の田園風景、苛烈なりし戦いの傷の跡とは一見わからない。広い原には、碁盤の目状に縦横に農道が整備され人家も又現代風をまじえ明るい。

高橋圭子 花吹雪より

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