鉾田飛行場の整備員たち 風呂 相馬原町の整備軍属は最初に、本校の鉾田飛行場で訓練を受ける。

鉾田市史より
福島県相馬郡に一五年六月に開場した原町飛行場は、一七年七月に鉾田陸軍飛行学校に移管され、鉾田陸軍飛行学校第二中隊飛行場となり、一九年五月には鉾田教導飛行師団原町飛行場と改称された。陸軍少年飛行兵第一三期生の二五人は原町飛行場、二〇数名は鉾田飛行場で訓練をうけた。鉾田に来た少年飛行兵は八月から三か月程、教育隊長であった岩本大尉から指導をうけた。岩本大尉が少年飛行兵と生前に約束した「芋を食う会」は、大尉の死後、一一月一六日に三代目校長今西六郎の自宅で行われた。

万朶隊の特別攻撃は、地元の人々に大きな反響を巻き起こした。鹿島郡常会では「特攻隊の偉業に続けと六十機建造貯蓄運動」を展開し目標達成決議をおこなった。また鉾田国民学校では朝礼時の挨拶の言葉を従来の「~をしっかりやれ」から「~を体当たり」に改めた。万朶隊に続いて、一九年のうちに松井浩中尉を隊長に編成された八紘第五隊(鉄心隊)、山本卓美中尉を隊長に編成された八紘第八隊(戦地で丹心隊と勤皇隊に編成替)、三浦恭一中尉を隊長に編成された八紘第一一隊(戦地で進襲隊と皇魂隊に編成替)が特別攻撃隊として編成された。特攻隊の編成の中には、戦地まで赴き整備や通信の任務につく軍属も含まれていた。

飛行学校では学生増員に伴い、新設の学生寮だけでは収容できず、一般家庭でも学生や将校を下宿させるように役場を通じて依頼した。鉾田地域は気候が温暖で、近くに湖や海もあり、食べ物は比較的恵まれていた。それゆえ、全国各地から集まっていた飛行学校関係者を地元の人々は戦時中ではあったが受け入れることができた。兵士たちは出征命令を受けてから数日で出征し、その間も自由時間は限られ帰郷できない場合が多かった。そのため下宿先の夫婦が親がわりの世話をすることもあった。

昭和二〇年(一九四五)の二月一六日、二五日の両日、鉾田校の飛行場は米軍機から爆撃を受けて格納庫や飛行機に大きな損害をうけた。
飛行学校の関係者によってまとめられた記録によると、二〇年二月から六月までの間に鉾田飛行学校に関わる特攻隊として、振武隊四五隊(藤井一中尉を隊長に編成)、振武隊六三隊(難波晋策准尉を隊長に編成)、振武隊六四隊(渋谷健一大尉を隊長に編成)、神鷲隊二〇一隊、神鷲隊二五五隊が編成されている。出撃した兵士の多数が沖縄海上と鹿島灘東方洋上で戦死した。

二〇年七月に鉾田教導飛行師団は作戦任務の第二六飛行団と教育研究任務の第三教導飛行隊に再度編成替になった。二月の空襲後、飛行機は一部だけを鉾田に残し、他は那須・八戸・能代等の各飛行場に分散配置された。二〇年八月一五日に戦いは終わり、鉾田陸軍飛行学校は一五年一二月の開校以来四年余りで閉校となった。戦後、学校の建物は跡形もなく取り除かれ、敷地及び飛行場は畑地となった。その一部は地元の人々や長野県出身者が美原開拓として入植した。

戦後半世紀の間、岩本大尉から指導をうけた少年飛行兵一三期生と岩本夫人によって、大尉の命日に特攻隊戦死者の供養が毎年おこなわれてきた。
昭和四九年には、飛行学校関係者によって飛行学校門衛所の跡地付近に「顕彰碑」が建てられ、碑の前で毎年一〇月の第三日曜日に慰霊祭がおこなわれている。

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