「特攻隊」の思い出を背負って
 若松蓉子
 序章
 昭和二十年八月十五日、私は国民学校三年生(八歳)であった。終戦の詔勅の意味も知らず炎天の庭で無邪気に遊んでいた。父の言動や家中の雰囲気の異常さを察知していてもいつのまにか遊びに熱中。「笑ってる場合じゃない。日本が・・・・・・。日本が、負けたんだ」ととびっきりでかい兄の声に身がすくんだ。あの日のことはギラつく太陽と兄の剣幕と突然襲ったわけのわからない感想で頭の中が真っ白という記憶がある。そして、その後八月十五日がくる度思うことは、敗戦があと半年早ければ、あの素敵な兄貴たちは死ななくて済んだのにということである。
 私の原風景となる昭和十九年二十年のことをいつか書き残しておかなければ思いつつ今日になっていたが、今回の原稿依頼のおかげでまとめることができ感謝している。少ない記憶だが、亡母や姉の遺族との文通、遺族訪問の記録もあるので、これらを参考にまとめていきたい。
 いま原町市の公園墓地には特攻隊の像が建ち、毎年戦没者の慰霊祭が行われ、生存者や遺族たちが集まるのでお話を聞くチャンスもある。この文章は事実をもとに記述するが、私の感想随想が中心で、原町で青春を送った兵隊さんの姿を映し出すだけでなく、そこに「死をもって国に尽くせ」と教えた教育のことや戦争の愚かしさを伝えたい意思がある。しかし、遺族の思いと異なるものがあるかもと懸念し・・・人名は仮名とすることをお断りしておきたい。
 原町に飛行場があった
 陸軍原町飛行場は、昭和十五年開設以来昭和二十年八月まで、熊谷・明野・水戸・鉾田各飛行場の分校として、陸軍士官学校五四期生から五八期生や他の兵隊たちの訓練場であった。十九年秋から二十年初夏までは「陸軍特別攻撃隊」の訓練場でもあった。
 所在地は、現在の原町市の中心から四キロの西南、「野馬追い」祭場地から西の山裾まで二キロ×三キロの広さであった。子どもの足ではかなりの距離だがそのころは何ともない距離で、私も何度か訪れたことがあった。飛行機は二枚翼のプロペラ機や双発機もあったが、数は多くなかったような気がする。格納庫二つ滑走路一本。空からの攻撃に備え、南の長岡という丘陵に穴を掘って木の枝で覆った「掩体壕」をつくって機体を隠した。昭和二十年に入ると、東の本陣山の下にまで急造の掩体壕つくりに、学徒だけでなく街の人もかり出され、父も隣組の年配者を連れて出かけるようになっていった。
 飛行場建設にあたっては、当時の相馬農蚕学校の生徒達が勤労動員されている。そこで生活していた畑作農家が移転させられている。建設後も相双地方の中学生女学生たちの勤労奉仕が常時行われていた。双葉中学校OBの話
 「仕事は土運び、掩体壕造り、掩体壕や松林から滑走路まで隼(一式戦闘機)の搬送であった。単なる作業でなく厳しい訓練も行われて、どれほど眠くても不寝番に二人ずつ交代で立つことになっていた。真夜中に非常召集がかかり隊伍を整えて二キロ離れた飛行場に駆け足で集合した時は、死を覚悟した程であった。食糧は乏しく焼印の番号のついた木の弁当箱にさっかりつめた昼食は三分の一くらいになっていた。寝具は前の勤労奉仕の人の使い古した毛布二枚を受けついだが、シラミとりは毎日夜の慣例行事であった」
(あぶくま新報 エピソード原町私史より)
 敗戦後、兵舎は相農高生の手によって丁寧に取り壊され、損壊した校舎は新しく生まれ変わっている。建造・破壊・再生とわずかな間に大きな変遷を歩んだ飛行場は一時引揚者の畑となり農業不振の今、住宅地。荒地となっている。
 飛行場の東北に隣接する原町紡織工場(当時軍需工場)が爆撃されたのは二十年二月、勤労動員中の女の先生と女生徒四名が死んだ。
 人口一万三千人の小さな町、何の変哲もない小さな原町は、飛行場があったので敵機の狙うところとなった。
 学問途上の学生や住民を巻き込んだたった五年間の原町飛行場史は、日本の歴史と重なって悲しく次に語る特攻隊の青春を思うとなおのこと哀れである。

 兵隊さんとの出会い
 私の家族と交流のあった陸士五十七期生が原町飛行場に来たのは、昭和十九年三月二十一日雪の夜であった。十月末の卒業まで七ヶ月訓練を受けた。中学四年あるいは五年から陸軍予科士官学校へ進み、航空士官学校を卒業と同時に原町に来た。年齢十九歳から二十一歳の青年達であった。
 鈴木さんの場合、名古屋明倫中に学び医者になることを目指していたが、中学四年の時、陸士へと志望を変えた。学校で先生の勧めがあったのではないかと思う。
 私と兵隊さんとの出会いにも学校がその役を果たしている。
 十九年五月頃、国民学校二年生の私は、先生に飛行場の兵隊さんに慰問文を書かされた。
 「ヘイタイサン ニクイ鬼畜米英鬼畜ヲヤッツケテクダサイ」
 と書いたハガキは、小山さんという兵隊に届けられた。二年生の私はこう書くのが当たり前のことと日頃から親にも先生にも教え込まれ鄭他のである。アメリカは敵だと思い込まされていたのである。アメリカは鬼だと思い込んでもいた。恐ろしいことである。
 続いて六月二十二日には飛行場慰問に連れて行かれ、「われは海の子」の合唱「兵隊さんゴッコ」「万寿姫」などの劇を見せていた。この日のことを、私はこんなふうに書いている。
 「ワタシノイモン文ハ小出サントイフ少尉サンニアタリマシタ。ソシテ返事ガキマシタ。ソレカラヒコウジョウヘイモンニイッタラ、先生ニ蓉子サン第一寝室トイフヘヤデ小出少尉ガマッテイルカラ行キナサイトイワレ行クト、京子姉サンガイマシタ。鈴木少尉トイフ人トシャベッテイマシタ」
 京子は二番目の姉で六年生。この日「万寿姫」の頼朝役。先生は六年生と兵隊さんたちを並べて対面させ、その子の家族と交流するよう仲介したのである。小出・鈴木少尉はこうして」我が家に遊びに来るようになった。第一寝室以外の五十七期生もよく訪れ、夕方から夜の帰隊時間までにぎやかであった。休日には朝から見え、読書する人、子どもと遊ぶ人、姉や従姉と談笑する人、家族に手紙を書き、私の父母と何やらしんみり話す人、さまざまであった。夜はお酒を飲みよくしゃべっていた。
 十五歳で家を出て軍人としての教育を受け家族と一度も会っていない人もあったから、家族の味、家庭の味を求めていたのであろう。原町を第二の故郷と呼び、私の母を第二の母と慕ってくれた。私たちもお兄さんのつもりでなついた。わずか四ヶ月の短い日々であった。
 故郷の家族の人に申し訳ない思いもするが、家族は酒を飲みタバコを吸う息子の姿は知らず、十五歳の姿のままの息子でアルバムに残っているのであろう。
 十月末には卒業となり、三十二名(六ヶ月の間に三名が殉職)はそれぞれの任地へと発っていった。我が家も常連の兵隊の送別会をもった。外泊許可の夜、姉の「明日はお発ちか」の踊りの途中「やめてくれ。圭子やめろ!」とドサっと仰向けに倒れたその目から一筋涙が流れていたのを私はそっと見ていた。男の人の涙、兵隊さんの涙を、私は驚きと悲しみの心でしまいこんで四十六年経ってしまった。この少尉は、「武人に恋もなし、愛もなし」と日記に記して特攻として死んでいった。
 五十七期生三十五名中、二十二名が戦死。二十二名中十三名が特攻として戦死している。
 
 特攻とは何だったのか
 海軍の「特攻」は昭和十九年十月の、神風特別攻撃隊で始まった。はからずも原町出身の中野磐雄さんがその人で、街中大変な喜びであった。陸軍は一ヶ月たった昭和十九年十月二十日鉾田飛行場発十一月十二日決行がその最初であった。原町飛行場にいた五十七期生はちょうど訓練を終えた(そのための訓練だったのだろう)ところで、卒業と同時に「特攻拝命」したことになる。十九年十月~十二月という時期は、日本はレイテ島、ルソン島で連合軍に囲まれていたころであった。
 草柳大蔵著「特攻の思想」14ページには
「特攻は死を客観にゆだねている。自決ではなく他決のうえにおける自決であった。当事者は死を覚悟しているのではなく「死」でしか任務を遂行できないのである。また特攻は制度として採用された持続的な組織である。」
 とある。(傍点若松)
 戦争であるから兵は誰しも死を覚悟して戦場に赴く。特攻的な精神で攻めることも死を賭して突撃することもあろうが、「特攻隊」は国家が組織し制度として若者に「死」を目的として戦うことを命令したのである。これが国家の犯罪でなくては何であろう。このことを知ったとき、私はこみあげる憤りで旨がはりさけそうであった。悠久の大義に生きる」「東洋平和のため」と言って充容としてむしろ意気高揚して「特攻」に散った青年たちは、「生きていることは恥」なのである。この世に人の子として生まれて「生きることを拒否」されたと同然のこの制度は、「祖国を守る」「愛する家族を護る」ためというより、「天皇制国家を護るため」であったと私は考えている。実は無謀で無益な策であった。
 志賀少尉、昭和十九年十二月十六日ミンドロ島で戦死(享年二十歳)。お母様はこう語られた。
 「せっかく育ててあげたのに軍人なんてあわてて行くことないのに」

 「国華隊」の特攻兵の皆さん
 五十七期の方々の思い出、悲しいできごとはたくさんあって書き尽くせない。が、二十年四月から我が家に寄宿した陸軍特別攻撃隊「国華隊」については、ぜひここに記しておかねばならない。
 料理店をしていた我が家もこの頃ははひまで脚もいなかったから、陸軍から町を通して頼まれ、国華隊十二名をお預かりすることになった。魚本さんでも神州隊をお引き受けした。飛行場も空襲の危機を感じていた二十年四月のことであるから、大事な特攻兵を民間に分宿させたのか、兵舎がいっぱいであったのか。敗色目に見える時、全く死の訓練の来原町である。
 国華隊は渋佐隊長以下十二名、稲村副隊長、西副隊長、林伍長、佐藤伍長・・・・と名前もしぐさの癖もおぼろげながら瞼に浮かぶ。シーツをすっぽりかぶっての怪談で、子ども達を怖がらせた岸本少年兵は十七歳であった。はにかみやの柳さん、皆沖縄の海の藻屑となって消えた。確実に敵艦を撃沈させることができたのあろうか。生存者一名。飛行機の故障で引き返したからである。この方とは年賀状を交換しているが、「生きているのも辛いものです」と聞いてからは戦争のことは尋ねないことにした。
 「特攻隊」ということで、町をあげての歓迎の宴や接待、慰問の人が毎日のように訪れた。学生、子ども、婦人会の演芸があり、米や野菜のさし入れがあり、甘いあんこの入った大福餅さえ頂いた。二十年三月十日には東京大空襲があり、仙台空襲の時は、北の空がかすかに赤味を帯びたと人々が噂する程であったのに、ますます「一億総火の玉」と戦意をあおり、我が家の唐金の火鉢、タンスの金具、火箸のはてまで鉄砲の弾にと供出を余儀なくされて「お国」のために出ていった。母の着物や帯も、若い兵隊さんの食事のために、何故かお米に代わった。軍の支給があったが、それ以上にもてなしてあげたいと母の気持ちであった。
 渋佐隊長さんは三十歳。秋田県酒田の生まれ。三歳の娘さんがあり奥さんはこの時身重であった。五月初め原町に夫を訪ねてきた。娘膝の上に親子水入らずの食事。これがこの世の最後の夕食であり、若い退院を慮られて寝室は別にするという立派な方であった。六月二十一日沖縄の海に突入。その日の同日同期国、秋田では男子誕生。軍人の妻はなくことも許されなかった。私の母は一言、「酷い」と絶句した。
 渋佐さんの遺書は、妻宛のほか「○○子並に生まれくる愛し子へ」とがある。
 
 この遺書は靖国神社の社頭に掲示されたことがあるというが、魂は「英霊」として祀るより、妻や娘、父の顔も知らぬ息子のもとへ帰るのが当然ではないのか。
 
 悲しみのあとに
 ある特攻隊長の妻は、夫が特攻を拝命したと聞き「夫に後顧の憂いなきよう」わが娘、わが命を絶ったという。「まこと軍人の鑑」と報道された。幼い日この話を聞き、ザックリ胸を切られたような怖れと驚きと感謝で身を硬くした記憶が残っているが、今なお同じで、冷たいものが背筋を走る。
 鈴木さんのお姉さんは後日、
 「戦という字が大嫌い。主張したい言い分があっても、たとえ一生奴隷にされても、もう殺し合いはごめん」と唇をかみしめた。
 五十七期の木杉さんに書いて頂いた色紙には、
「レコードは始動してより一本の条をたどりやがて最後の停止に至る。人生も亦かくの如きか。さいわいレコードは針を戻せば再びもとの条をたどるも、人生には針を戻す術なし。青春。武窓生活と心をこめた鑑賞こそ大切なれ。されば、刻まれし時は過ぐるも、他愛なきレコードは回る」
と書いてある。音楽の好きだった木杉さん。どんなにか人生をやり直した
かったか。木杉さんは原町特攻の歌を悲しいメロデイーで唄った。

福島県退職女教師の会「だいこんの花」より

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