2014
 松浦尚三氏から、柳屋旅館にとまっていた特攻隊員のひとりが、裏の竹藪で、日本刀でひたすら竹を袈裟切りしている真剣な姿を目撃したことがあったという。九歳のときだった。わずか2か月しか宿泊しなかったが、一緒に暮らした人々である。いつもは親しく山遊びや川釣りに興じていたお兄さんである。昭和19年の春から原町に来て、整備日と呼ばれたパイロットの休日に、柳屋をたずねるようになり、特攻隊が下命されてからは、わかい隊員たちに、せめて家庭的な雰囲気だけは味わわせてやろうという気持ちから、飛行隊トップの温情から特別に民泊を許したのだ。まるで家族のように同じ屋根のしたで、同じ釜の飯を食って生活していたので、ほんとうの兄のように案じていたが、しかし、どのような気持ちで一心不乱に白刃の日本刀を、閃かせて振っていた姿には鬼気迫る気配を感じて、恐ろしくなってあとずさりしたことがあったともいう。
また別な機会には、泊っていた隊員を訪ねて、大阪から、見た事もないような美女がたずねてきたことがある。大阪出身の巽少尉という青年将校の想い人だった。旅館を経営する父母がたまたま双方いなかったので、息子の尚三さんが玄関にでたのだという。「あんなきれいな女の人は見たことがない。こんな女優のような女性が、この世にはいるんだなあ」と、子供こころに思ったものだという。
ふたつの逸話を、印象的に聞いた。終戦70年の今夏。原町の歴史の一齣として、訓練中の特攻隊員の姿を点描してみた。

大阪から来た、といえば巽さんの婚約者である。竹藪での鬼気迫る真剣の剣技をみた、というのは鈴木邦彦少尉であろう。

松浦尚三氏の原町特攻隊員の話

 昭和二十年に原町陸軍飛行場で編成され訓練して出撃して行った振武64隊「国華隊」の隊長以下全員は死地に赴く前に「せめて家庭の温もりを味わわせてから」との飛行場長の温情から、地元の柳屋旅館に合宿させてもらった。経営者の家族松浦尚三氏は九歳だった。
  特攻隊員たちは、世話する両親を実の父母のように「おとうさん、おかあさん」と呼び、同じ屋根の下で家族のように同じ釜の飯を食って生活した。
九歳の松浦尚三
 いつもは親しく山遊びや川釣りに一緒に興じていた青年が旅館の裏の竹藪で、将校に昇任して所有が許された軍刀を振って、ひたすら竹を袈裟切りしている真剣な姿を目撃したと聞いた。
 あまりの鬼気迫る情景に特攻隊の心中の激しい葛藤とストレスを垣間見て、思わず恐ろしくなってあとずさりしたという。
 この若者たちは原町飛行場で訓練して、翼を振って南の空へ去った。沖縄の海の米軍艦艇に体当たり攻撃で国のために命を捨てて死んだ。
 終戦記念日の前後に図書館ギャラリーで展示会を開き、戦争の苦痛を語り伝えて国の過ちを二度と繰り返すなと訴えたい。

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