あとがき
整備班の青春
出征中の兄に会えるかもしれない、いやどうしても会いたくて、フィリピンに派遣してもらいたい、と面接担当の整備の田所中尉に志願した15歳の新関芳信さんは16歳の青田さんが選ばれたことで田所整備長を恨んだこともあったというが、人事の選択についても、青田が悲惨な最期を遂げたことを戦後に知って言葉を呑んだ。人智を越えた戦争の下の人間の運命の前に、選択の余地もなかったし、夢中で生きるほかなかった。
東北線の機関士として戦後を生きた。同じ仙台の同期の持館や、原町の新妻、東京の渡辺などの青春の日に整備軍属としての仲間と終生の友情の友であった。
彼らは、整備はパイロットのためにあると考えているし、士官が中心の慰霊顕彰会では目立たない。
「わたくしごとき軍属のはしくれに」という手紙をもらった時に、こうした縁の下で黙々と働く整備やメカニックの話題よりも、士官という戦争指導層の教育観、精神論が中心の世界が、なぜ息苦しいのか。
昨年の9月1日、太田の京谷さんという最初期の軍属の大先輩で、ほとんどの後輩たちの実地指導をした整備員は、終戦で気が抜けたようになって、以後は夫人が農家の原動力で暮らしたという。
特攻隊の機付の整備員として、当時の日記を大事に諸事してきた近藤諭さん。
新妻幸雄さんは、はるかな時代の勤皇隊の若い特攻員の増田良治のことを話すときに、まぶしそうに「すばらしい人でした」と、尊敬のまなざしで語った。
当時の乙女たちが、特攻兵を身近に見上げ、国を護るために神になる、と教えられ、教えられたとおり、いまでも九段の靖国神社へ彼らを神として尊崇にお詣りにゆく。
この三、四年で、新妻さん、佐々木さん、慰霊顕彰会事務局の八牧美喜子さん、安川キエさんなどが次々と亡くなられた。
なつかしい思い出とともに、取材で多くのことを教えていただいたことを感謝して、ここに記します。
二上英朗 2019年6月15日 梅雨に入って
2019年7月4日 動輪社 編集発行