昭和二十年四月二日
原町健民修練所長
校庭使用方二関スル件
    殿
当修練所四月九日マデ常時原町幼稚園跡二左テ開設可致 処貴校校庭二左テ支障ナキ限り随時使用方御取計被度此□々依頼 也
                                                    以上

国民総動員令を布告した大日本帝国政府は、あらゆる施設を望むように徴発して翼賛施設を次々に設置した。健民修練所とは、

参考:Wikipedia
健民修錬所(けんみんしゅうれんじょ)[注釈 1]は、太平洋戦争期の大日本帝国において、国民の体力の管理を目指した国民体力法に基づいて設置された教練・療養施設である。1940年に制定された国民体力法は、17~19歳(のちに15~25歳)の全ての男子に対して体力検査を義務付けるものであったが、この中で「兵役に適さない者」とされた筋骨薄弱者・結核要注意者などを修錬所に集め、最大2ヶ月間の合宿形式の生活教練を施した。この制度・施設は1943年から1945年にわたって存続した。
入所経験のある人物

手塚治虫は随筆『ガラスの地球を救え』において、1944年8月に兵庫県西宮市の一里山健民修錬所(書中では「国民体育訓練所」)に送られた経験を記している。また自伝的漫画『紙の砦』でも、教官ににらまれた生徒の特殊訓練所として同所が描かれている。手塚は厳しい教練とその環境の劣悪さから施設を「ラーゲリ」(強制収容所)と称しており、食事の乏しさに耐えかねて、夜間に鉄条網をくぐって修錬所を抜け出して実家に戻って食事をしていたと綴っている[注釈 5][21]。ここで手塚は白癬症(皮膚病)に罹り、入所後1週間程度で治療のため自宅へと帰ることとなった[22]。

映画評論家の荻昌弘も自著において、1944年に第二乙種と判断されて熱海の健民修錬所の合宿に送られ、毎朝5時から夜まで丸一ヶ月しごき抜かれたことを記している。熱海再訪の際に「ふりかえると、今でも胸の底に、このしごきというよりイジメの息苦しさと、居丈高な指導員への憤りが、鉛みたいな玉に固まってくる。」と語っている[23]。

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