青田忠央 昭和4年3月10日 相馬郡石神村大原生まれ

鉾田陸軍飛行学校~原町 鉄心隊整備隊

昭和20年7月15日 ルソン島カガヤンの103師団野戦病院

 

昭和18年4月鉾田陸軍飛行学校に陸軍軍属として入隊し、97式、1式などの戦闘機整備教育を受け、19年4月には原町分教場に出向し、99式爆撃機整備訓練を重ねる。19年11月特攻隊鉄心隊は原ノ町を発ち、立川において特攻機受領の上、鉾田本校に着陸する。「フィリッピン島に出張を命ずる、鉄心隊出撃後は内地帰還とする」の命令を受けけた青田整備員は、11月8日鉾田を発ち大阪・九州・沖縄・台湾の飛行場を経て約二週間にてルソン島クラーク飛行場に着陸した。途中着陸ミスで怪我をした大事なく現地病院で全快、ひたすら特攻機の目的達成に向けて整備に努力し、特攻機の目的達成に向けて整備に努力し、特攻機はクラークよりマニラ近郊のカローカン飛行場に空輸され、その日のうちに特攻出撃となり、昭和19年12月5日から昭和20年1月6日までの間に松井隊長以下11名は次々に出撃して行った。鉄心隊特攻出撃ののち、整備・通信員は内地行きの飛行機便乗を受けたが、戦況悪化と共にその順番は来ず、昭和20年のカローカン飛行場附近は雨降り続き、米機空襲bは日増しに激しく、米軍上陸を間近かに控えたので、約50名でルソン島北端のアパリに向けて夜行軍を開始した。一夜に40キロメートルを踏破したが、間もなく病人続出し、食糧と医薬品の欠乏に苦しみ、マラリア、下痢に悩まされた。突然の敵機空襲を受けて、逃げ場に戸惑い、数名の死者も出した。幸いカガヤン渓谷付近の103師団野戦病院に辿りつくことができ病人の収用を依頼し、元気な者25名はアパリ港を目指した。しかし、到着したところ我が艦船の姿は既になく、連日の空襲と迫撃攻撃に次々に戦死者を出し、残るは青田整備員一人となった。時に昭和20年7月始め頃と思われ、血と汗にまみれて山路を辿り、やっと前記野戦病院を訪ねあて戦友の状況を報告したが、彼は既にアメーバー赤痢にかかっており、下痢の状況はひどく口もきけざる状況であった。入院して開放されたものの、衰弱と安堵感も手伝って7月15日に至り、息絶えられた。満16歳であった。

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