あとがき
八牧美喜子さんを囲んで
南相馬市の野馬追祭場地雲雀が原の原町陸軍飛行場の整備兵だった安川弘青葉幼稚園理事長は、ともに演習してきた陸士57期の士官から選ばれた特攻隊の隊長や隊員たちの飛行機を担当して見送った。青森で空襲を受けながら、原町にも犠牲者が出たと聞いた。
それでも最後の時は来た。8月9日と11日の連日盲爆されて、終戦後に原の町駅に降りた時、瓦礫の山を見たという。
3・11の地震と津波が襲って来て、戦後世代の我々は取材で聞いていた瓦礫というものを初めて見た。津波で636人が溺死。原発事故の関連死は孤独死と自死で日本一の犠牲者。
終戦で虚脱した町には希望が必要だった。
未婚女子も国家総動員法で陸軍飛行場の事務員として働いていた安川キエさんとお見合い結婚して戦後の幼児教育の場の青葉幼稚園を支える人生が始まった。
それから69年たって、安川キエさんが98歳で長逝された。
戦後の青春が平成の終わりに晩年を迎えられた。

兄に会いたくて、フィリピンに派遣してもらいたい、と志願した15歳の新関芳信さんは16歳の青田さんが選ばれたことで田所整備長を恨んだこともあったというが、人事の選択についても、青田が悲惨な最期を遂げたことを戦後に知って言葉を呑んだ。人智を越えた戦争の下の人間の運命の前に、選択の余地もなかったし、夢中で生きるほかなかった。
東北線の機関士として戦後を生きた。同じ仙台の同期の持館や、原町の新妻、東京の渡辺などの青春の日に整備軍属としての仲間と終生の友情の友であった。
彼らは、整備はパイロットのためにあると考えているし、士官が中心の慰霊顕彰会では目立たない。
「わたくしごとき軍属のはしくれに」という手紙をもらった時に、こうした縁の下で黙々と働く整備やメカニックの話題よりも、士官という戦争指導層の教育観、精神論が中心の世界が、なぜ息苦しいのか。
昨年の9月1日、太田の京谷さんという最初期の軍属の大先輩で、ほとんどの後輩たちの実地指導をした整備員は、終戦で気が抜けたようになって、以後は夫人が農家の原動力で暮らしたという。
特攻隊の機付の整備員として、当時の日記を大事に諸事してきた近藤諭さん。
新妻幸雄さんは、はるかな時代の勤皇隊の若い特攻員の増田良治のことを話すときに、まぶしそうに「すばらしい人でした」と、尊敬のまなざしで語った。
当時の乙女たちが、特攻兵を身近に見上げ、国を護るために神になる、と教えられ、教えられたとおり、いまでも九段の靖国神社へ彼らを神として尊崇にお詣りにゆく。
この三、四年で、新妻さん、佐々木さん、慰霊顕彰会事務局の八牧美喜子さん、安川キエさんなどが次々と亡くなられた。

なつかしい思い出とともに、取材で多くのことを教えていただいたことを感謝して、ここに記します。

二上英朗     2019年6月15日 梅雨に入って

おまけ

南方出張記
陸軍特別攻撃隊 八紘隊第8中隊 山本卓美隊 機数12機
昭和19年11月15日編成 4編隊
福島県相馬郡石神村
鉾田陸軍飛行師団原町分隊
機種 99襲撃機 二式複座戦闘機 夜間戦闘機も含む
人名簿
操縦           通信       整備
隊長 山本中尉      南出曹長 隊長  植木少尉
宮城軍曹
二瓶少尉                  杉下軍曹
東 少尉                  大西軍曹
湯沢曹長 出撃時加入(現地)林曹長     中野工員
北井軍曹                  佐藤工員
勝又伍長                  江井工員
白石兵長 6名は陸軍航空兵卒業   菅原工員
入江兵長                  新妻工員
加藤兵長                  吉田工員
大村兵長                  三好工員
片野兵長                  藤原工員
増田兵長                 宮城軍曹は私の機種同乗
合計27名
通信 南出曹長、林伍長、隊長機、白石機は同乗二名なり
◎99襲撃機一機は現地で偵察の任務のため
仙台市の新関芳信氏提供のメモより 追記

6月25日 蒸し暑い一日、海軍偵察電信海軍士官早川英夫を追悼して記録。

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