昭和十六年。元旦に分隊長以下が整列して「原町憲兵分隊」の看板を取り付け、日の丸を掲揚して乾杯。宿直員以外は午後おのおの下宿に戻って休養。柴田分隊班長は実家が相馬中村なので帰宅した。庁舎の敷地は町一番の長者の叶屋・佐藤信成氏が提供売却したもので、隣接する地に分隊長宿舎を建て、さらに準官舎二棟を建築して提供し、積極的な好意を表した。所帯持ちの隊員が、月額五円で入営。班長は準官舎で起居し、食事は向かいの半沢食堂で出前をとった。

一月、原町飛行場は熊谷飛行学校から明野飛行学校に移った。それまで赤トンボと通称された95式中練習機は布張りの複葉機での航空初等教育だけであったが、全金属製の最新鋭の97式戦闘機14機を使用する本格的な戦闘技量訓練に変った。三月に入って異動時期には会津若松分隊から矢吹伍長、竹内兵長、金沢隊から富永兵長が着任。隊員の増加によって、組織は充実し、態勢は整備された。出征兵士遺家族の紛争等、身元調査や諸事務は漸増し多忙を極めた。

陸軍飛行場騒音に対する町民の苦情

さて、軍事警察面において目立ったのは、飛行場が建設されたための町民の不評であった。ある家庭では、飼っている鶏が、飛行場の訓練の爆音で卵を産まなくなったという。飛行を中止して欲しいとの要請を分隊長宛に苦情として投書した。大甕村の関頭神社宮司が、これは軍誹謗の文面であるとして、また分隊長代理も「時局を理解せぬ非国民だ」と断じて、伊藤軍曹に命じて分隊に呼び出し、懇々と説諭して始末書を取って釈放したということがあった。昭和十六年七月九日、原町飛行場で訓練中の及川宏(広島出身・陸軍士官学校53期)が陸軍97式戦闘機の訓練中事故により殉職。

野馬追祭で原町憲兵隊が写真撮影禁止

昭和十六年四月から福島連隊区司令部の検査で浜通り地区は相馬中村小学校で三日間、順次二日、三日位の期間で原町、富岡、平と連日取締りの任に就く。昭和十六年七月十一、十二日の野馬追祭では、原町憲兵分隊によって写真撮影が禁止された。十一、十二日の二日間、写真機(カメラ)携帯厳禁との旨を十日午後二時、原町憲兵隊と原町警察署で共同声明を発表した。同時にこの禁令は町の要所要所に立て札とされたが携帯するものは憲兵隊または警察署にて封印を受ける必要あり、若し受けない場合は没収されることがあるかも知れない、又新聞記者所属ニュース映画班、地元写真業者は憲兵隊査証せるリボンを佩用して撮影を特免するが十一日の宵乗りの現状は絶対撮影を禁ずる由(福島民報)

祭にあわせて、陸軍中将田中静壱憲兵司令官以下随行二名が、新設の原町憲兵分隊を視察。原町分隊長は会津若松分隊長と兼務の大倉中尉。視察後、異動があった。昭和十六年八月、下宿旅館布袋屋で出された夕食のアンコウの倶合(ともあえ)で三名に食中毒に当り、食品衛生の管掌である原町警察署長を出頭させ、厳重取締りの上始末書を取って説諭した。十六年九月、原町飛行場は水戸飛行学校第三中隊に移管された。

昭和16年 大東亜戦争開戦直前の飛行場拡大

野馬追の祭場 夜の森に替地 近く買収交渉開始
天下の偉観、千年余の伝統と歴史を誇る相馬野馬追祭は祭場地の原町郊外牛来山下雲雀ケ原が某用地となるため明年より祭場地なく惜しくもこの神事を中止の外なく関係者は種々大作を考究中であったが今回県社寺兵事課の好意により内務省で祭場地変更に乗り出し二十七日午後二時同省官房会計課瀧川猪之吉氏が来郡中村町県社中村神社に三神社神官並に中村町助役庄司清原町町長堀川一正、太田村長高野将衛、小高町長錦織新太郎の諸氏及び氏子総代代表者が参集祭場地替地問題を協議同日原町夜の森公園附近の現地を視察したが近日更に関係者会義を開き地主に交渉買収する予定で右成立次第国粋の野馬追祭は永久に持続される訳でこの交渉及び買収費補助は某関係当局積極的に協力してくれることになってゐる(昭和16年11月30日民報)

昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発。

野馬追の祭場 夜の森に替地 近く買収交渉開始
天下の偉観、千年余の伝統と歴史を誇る相馬野馬追祭は祭場地の原町郊外牛来山下雲雀ケ原が某用地となるため明年より祭場地なく惜しくもこの神事を中止の外なく関係者は種々大作を考究中であったが今回県社寺兵事課の好意により内務省で祭場地変更に乗り出し二十七日午後二時同省官房会計課瀧川猪之吉氏が来郡中村町県社中村神社に三神社神官並に中村町助役庄司清原町町長堀川一正、太田村長高野将衛、小高町長錦織新太郎の諸氏及び氏子総代代表者が参集祭場地替地問題を協議同日原町夜の森公園附近の現地を視察したが近日更に関係者会義を開き地主に交渉買収する予定で右成立次第国粋の野馬追祭は永久に持続される訳でこの交渉及び買収費補助は某関係当局積極的に協力してくれることになってゐる (昭和16年11月30日民報)

昭和17年

昭和十七年四月、異動。仙台憲兵隊より中岡正三郎中尉が二代目分隊長として赴任してきた。着任にあたって「分隊員はどんどん戦場に出征するので隊員は協力し合って勤務に精励するように」と挨拶で訓示した。その言葉どおり、次々に隊員は戦場へと駆り出されて行った。

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