原町飛行場 特攻隊国華隊付

整備隊見習士官佐々木充の証言

国華隊担当の見習い士官三名は、交互に整備隊を指揮した。私は田辺大尉より、整備隊をまとめ、特に外部との連絡を密にし、事故あれば速やかに報告するようにと命じられた。各機、機付が二名、経験豊富な下士官が全機の整備技術の指導にあたった。私が渋谷隊長から命じられたことは、プロペラを全部木製より金属製にするようにということであり、今でもはっきり覚えている。隊長はしっかりした優しい感じで、頼もしい立派な将校であった。宿泊旅館柳屋の長女高橋圭子さんの話だと、民泊したのは四月十二日から五月二十八日の期間であって、隊員は必死に訓練に励み、訓練終了後は出撃が待っているのであった。隊員の気持ちはいかばかりかと思っていた。

我々整備兵も何時かは特攻隊員の後に続くものと信じていた。我々整備兵は、飛行訓練に支障ないようにしっかりした整備をしなければいけないと思っていた。訓練期間終了後、いよいよ五月二十八日、町の人多数見送りする中、原町飛行場を出発することになり、全機支障なく出発するよう祈っていたが二機戻ってきたのでがっかりした。戻った二機は、二日後に出発した。全機、六月九日万世飛行場到着、六月十一日薄暮に出撃したのである。渋谷隊長は、家族に立派な遺書を残した。

特操見習士官に特攻隊員として命令下る

ある時、特操見習士官と整備見習士官同士が会談している時、部隊本部に呼ばれた特操見習士官が帰ってきて、特攻隊員に命じられた旨告げた。本人はすごく興奮していて、本土決戦のため、全国飛行場に特攻隊が編成されたその一員になったのだと思う。

陸士五十七期乙種学生訓練のため青森油川飛行場へ

A 宿舎

昭和二十年六月上旬、陸士五十七期乙種学生訓練のため、青森市油川の陸軍飛行場に勤務することになった。

整備担当は石橋見習士官と私、下士官は吉木武志伍長、吉田吉直職長以下約三十名。殆ど原町出身の軍属である。宿舎は油川の海岸近くにある浄万寺である。当時可愛らしい男の子が居られたが、整備隊の人達にも可愛がられていた。過日、電話にてお伺いした所、先代の住職であろうとのことですでに亡くなられた由、昨年七年忌法要をされたそうで、非常に残念に思った。

宿舎から飛行場までは歩いて通勤した。飛行場はまだ一部建設中であった。

飛行場は海に近く、背後に池があり景色の良い市民の憩いの場になっていた。近くにリンゴ畑があり、時々、小学生の勤労奉仕隊が来て飛行場の草刈りをしていた。

青森市役所に問い合わせたところ、現在飛行場跡には学校等、公の施設が建っているとのことである。

B 一式戦闘機受領のため立川航空補給廠へ

昭和二十年七月、立川陸軍航空補給廠へ一式戦闘機三機受領の命令を受けた。

操縦者は、陸士五十七期中嶋重之中尉他二名、整備は私と兵長と二名であった。

午後四時青森駅を出発、翌朝宇都宮駅を通過する際丁度宇都宮市の空襲直後であった。宇都宮空襲は、昭和二十年七月十二日であったので、7月十三日朝であったと思う。

早速立川の陸軍航空補給廠に行ったが、一式戦闘機は受領することが出来なかった。

兵站旅館に宿泊したが、その夜空襲があり、防空壕に入っていたが時々爆弾と思われる裂しい音がした。

翌日、中央線が空襲のため不通だったので、南部線にて川崎駅経由で上の駅より東北本線で帰路に着いた。途中、黒磯にて下車、師団司令部に行き、飛行機の補修に必要な部品を青森飛行場へ送る手配をして、黒磯に一泊し青森へ向った。川崎、東京の車中から見る景色は、一面焼け野原で昔の面影はなかった。私は東京で生まれ、育った者として淋しく思えた。

D 整備隊は青森飛行場より原町飛行場へ引き揚げる

昭和二十年八月始め、陸士五十七期の訓練のため整備隊は、青森飛行場より原町飛行場に引き揚げることになり、原町に行く途中急行列車で新田と小牛田の間で空襲に会い、一時は全員で列車より降り国民学校に退避した。列車が動き出したのでホッとして列車に戻り、かなりの時間がかかり原町駅に着いた。駅前より軍属の人は家に戻り、軍人はトラックで部隊に戻った。

青森より戻った時の原町飛行場

飛行機はすべて石神村の林に秘匿されていた。誘導路は敵機に悟られないように木を切って隠した。各機付は飛行機の側で消火器を持ち臨戦態勢で臨んでいた。

石神村の林の中に三角兵舎をつくり、その中に住むことになった。風呂はドラム缶である。馴れていなかったので入浴しづらかった。

掩体に入っている飛行機は全て本物から木製の模型飛行機に代わり、わざと出してあった。

昭和二十年八月十日の空襲

昭和二十年八月十日の空襲は、非常に烈しいものであった。各機付は、消火器を持って飛行機の側に待機した。敵味方激しい撃ち合いで、敵機グラマン戦闘機が急降下して攻撃する様子はすざましいものがあった。又、攻撃して上空に上がるゴー音、これを撃つ味方の機関銃の音が入り交じって、激しいものであった。私は蛸壺防空壕に入って様子を見ていたが、田辺大尉は防空壕に入らず、毅然として敵の動向を観察して指揮をとっており、実に立派なものであった。空襲が終っての被害は、学生舎の屋根が破壊され落ちた。格納庫その他各所が破壊されていた。

飛行場の通路を仲間と通った際、担架に乗せられた負傷兵が道の傍らに七八人並べられており、側に病院に運搬するためのトラックと将校一人がいた。皆でトラックの上に担架を乗せた。

夕方、街の人達が約五十人ほどスコップ、鍬等を持って滑走路の修理のため、勤労奉仕のために来られた。当時、如何に原町の人達が飛行場を思って協力されていたことがよく分った一事である。

 

玉音放送、終戦の詔勅

 

昭和二十年八月十四日、私はたまたま週番士官を命じられていた。夜終身後、B29の爆音が聞えた。週番司令より、八月銃後日玉音放送があるので石神国民学校に正午集合するよう命じられたので、整備隊全員に伝えた。陛下よりしっかりやるよう激励のお言葉かと思っていたが、十二時の玉音放送は終戦の詔勅であり、部隊全員の張り詰めた気が、一時は放心状態になった気がした。部隊から、和戦いずれにも対応するよう指示された。

陸士五十七期の乙種学生の人達も一緒にいた。五十七期の乙学の一人は、家が広島であり新型爆弾の報道で実家が心配であると話していた。

国民学校を職者にしている兵達の気が、一気にゆるんだ態度にしっかりするように注意した。校庭に於いて、四斗樽のブドウ酒の鏡が割られたのは、印象的だった。

少尉に任官と同時に石神村の農家の一室を借り、部隊に通ったが、間もなく私達は一番早く復員を命じられた。

終戦時の状況

幹部候補生、同期の原町飛行場関係者の記憶に残るもの下記の通りである。

小宮山少尉(東大卒)は、戦後会った時は銀行員であった。中川少尉(京大卒)名古屋監査法人伊藤事務所代表、公認会計士協会常務理事を務めたが、十年前逝去された。小西少尉は原町に残り飛行場に勤務した木幡さんと結婚し、原町にてタクシー会社を経営されたが、早く逝去されたそうである。後藤少尉は静岡県大渕市出身農業。吉野少尉は埼玉県志木市ふとん店経営。橋本少尉(東大卒)石橋少尉(早大卒)三島少尉(慶応大卒)原田少尉(旧制八高在学)等の方々は終戦後の状況は不明である。

修理隊の山下中尉に戦後偶然横浜で会った時の話だと、戦後部隊の食糧調達には大変苦労したそうである。整備隊は細川軍曹が良く頑張っていたそうである。

私は戦後、税理士となり長い間税理士業務を行って来たが、現在は事務所の所長を息子に譲り、午前中事務所に勤務している。

雲雀が原飛行隊の整備班

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