独立整備隊
青葉幼稚園の経営にたずさわってきた安川弘氏は山形県の出身で、昭和十六年に徴兵され現役兵として満州で独立整備隊に編成された、
昭和十九年九月に、部隊ごと原町飛行場にやって来たのが原町の地を踏んだ最初であった。
部隊は日本の兵百十、朝鮮人軍属百二十、併せて二百三十名にのぼる大所帯であった。
飛行場の山腹に穿った半地下式の壕に急造した兵舎が生活の場となった。
朝鮮人軍属はみな十九、二十歳の若者ばかりで、別な場所に寝起きしていた。
飛行場は鉾田飛行学校の分校時代で、鉾田教導飛行師団原町飛行隊の基地であった。
本土空襲のおそれを慮って、飛行隊本部は遠隔の石神村赤柴山の山腹に地下壕を掘り、そちらへ移っていた。
飛行隊は名のとおり教官クラスが実戦に投入され、やがて彼らも南方戦線のフィリピンへと散る運命にあった。
原町飛行隊のパイロットを送り出すための組織は、単に飛行場設備と飛行場用地だけで成り立っているのではなかった。
いわば町全体がすっぽりと飛行場用地であったといえる。
こんにち本陣山として相馬野馬追祭礼の祭場地スタンドになっている低い丘陵は当時は軍用機を分散して防護するための掩体壕が掘られていた。軍用機をそこまで移動する誘導路が突き当たるあたりが現在の橋本町四丁目。隣接する二見町一丁目の東ケ丘公園の山腹に戦後しばらく防空壕が残っていて、子供のころの私どもの遊び場にもなった。得体のしれない不思議な印象が今でも思い出される。
今でこそ住宅地となった橋本町は、当時こんもりした松林が続き、前述の誘導路をはさんで掩体壕とは反対側に、飛行機の部品や資材を置くテントが点在していた。
町はずれの軍需工場原町紡織と、原町陸軍飛行場が必要とする原料や燃料や資材などは町の対称地点に位置する原ノ町駅から運びこまれる。運搬手段はもっぱらトロッコ輸送である。町を大きく斜めに南西端の工場まで貫く軌条は、原ノ町の特徴的な風物でもあった。
旧原町人にとって「トロ道」と呼ばれていた軌条が中央と地方を結んでいた鉄道のさらに細かな血管の役割を果たしていた。
昭和二十年の原町空襲において、原町飛行場と隣接する原町紡織工場と、原ノ町機関区が破壊的打撃を受けた。それだけが国家の部品的な存在であった。
昭和二十年二月十六日の朝の記憶を、当時私立原町幼稚園教諭の安川キゑさん(のち私立青葉幼稚園園長)はこう語る。
「あの日の朝は、真っ青な空でした。何機もの飛行機が飛んで来たので、私は幼稚園児童たちと一緒に手を振ったんです。
あとで、それがアメリカ軍の飛行機だと聞いて、びっくりしてしまいました」
私立原町幼稚園は幼児教育に情熱を燃やす母親安川トヨさんらが創立した園であったが、このあと戦況の悪化を理由に閉鎖を余儀なくされたため、キゑさんは飛行場関係の会計の仕事をすることになった。
独立整備隊は、青森へ移った。安川弘さんは、そこで八月九日、十日の原町空襲を知った。
弘さんが再び原町の地を踏んだのは、空襲の直後の八月十三日のことであった。青森飛行場から資材を持って救援に来たのである。
駅前で、その時見た風景はまるで嵐のあとのようであった。
トロッコ道には倒れた電柱や建物の破片などが折り重なっていた。
小学校や寺などの大型建造物が、人的に軍国組織である国家の兵舎として機能した。狙われたターゲットになったのはこれらだけでなく、原町飛行場からの迎撃機が応戦に飛び立って来ないと知るや米軍機は悠然と原町の空をわがものにし手当たり次第で民家も農家も軒並み蹂躙された。