新関氏よりの手紙
拝啓
度々お電話や手紙をいただき誠にありがとうございます。私ごとき軍属の端くれにお心遣いの程、恐縮いたしております。
私の原町航空隊の一年間は人生の中で最も強烈な体験で、決して忘れることはできません。初めての実社会、内務班生活、軍用機の整備と、加えて空襲、そして敗戦時の状況、懐かしく想い出されます。
何もかも初めてのことばかりで、目まぐるしくて一年間はあっという間でした。19年といえば戦況は悪化し、19年暮れにはほとんどの実戦機は飛び去り、練習機だけの基地になりました。
秋から特攻作戦が始まり、比島に行って来た先輩の話を夢中で聞いたものです。実は私の兄も比島派遣軍から何度か軍事郵便が届いていたので、比島までついて行けば若しかして兄に会うことができるかもと思いひそかに心待ちにしていたものでしたが、しかし後で考えてみると無理な話だったのですが、一年先輩の青田君(鉄心隊)が選ばれたときは田所大尉を恨んだものです。結果的に選に洩れ生き残って今があるといえば感無量です。
田所大尉といえば入試のときの試験官で、当時は中尉で、口頭試問に「君は何男か」と問われ、「四男です」と答えると、「それではジャワあたりに行ってもよいか」と聞かれたことを鮮明に覚えております。
ちなみに3人受験し、長男だった友は不合格となりました。
一ヵ月程して合格通知を受け、父も心配だったのか隊まで送ってきてくれました。
入隊後は一ヵ月程基礎教育を受け、それぞれの部署に配属になり、私は希望通り整備になり、手始めは第三格納庫で99襲の見習でした。
少飛の訓練が終わると今度は学徒動員の特操の操縦訓練に入り、双発の高練だったので空中操作で原釜沖まで30分程回遊して帰るので、私も何度か便乗し銀翼の3機編隊は実にきれいでした。
その後、二式重戦に移り、京谷さん(大先輩)の機付となり、特攻に送り出すまで何度も叱られました。見習の私には仕方のないことだったのです。
19年も秋になると、馬場の松林を切り拓いて誘導路を作り、林の中に分散、詰所はテント小屋でシタ。ガソリンは松林の中にドラム缶で山積みになっており、油で汚れた作業服をガソリンでザブザブ洗った、嘘のような本当の話です。当時は「ガソリンは血の一滴」と言われ、飛行場長の乗用車はフォードで、木炭車でした。
南方の分捕り品とかで、立派なものでした。
パイロット連のことになりますが、班長だった湯沢曹長、春日軍曹、山本中尉、辻少佐(後相馬の丸三工場長)等。整備では桧山准尉、細川曹長、沖軍曹、吉木伍長、鶴田軍曹、佐藤伍長(後東北大を経て宮刑の医官)等主だったところです。
異色の将校はタイ国の留学生で、背の高い黒人のような二人で、外人を見たのは初めてで、落下傘ベルトにカタカナで「チヤラーム」「カムロン」少尉と書いてあったのを覚えております。
機は99双軽で園田中尉という貴公子然した教官でした。整備担当は本校から出張して来た三本准尉と柴田整備員で、その後の消息は分かりませんが、昭和40年頃だったか、タイのカムロン将軍の名前が新聞でちらっと見た記憶がありますが、もしかして彼かもしれませんね!
写真については同期の二人の写真をコピーしましたので参考にできれば幸です。当時は写真機を持っている者も少なく、ざんねんながら私のはありません。
敬具
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