平躰國友兵長 死後二階級特進して伍長17歳
昭和20年7月22日(推定)の夏だより
残夏の候とは云ふものの、寒気身に感ずる日の続く事五日余り、天神は気候を取違へたのかと思はさしめる事、縷々寒さの為につい焚火をして傍に寄り付くさまであります。又一珍事として(過言かもしれませんが)、当地方の麦畑は今だに刈取られず連日の梅雨の如き雨に打たれて穂を垂れ「時」を忘れたかの如くに見受けられます。当原町の気候を表示するに前記の二者がありますが故郷の方はどの程度でせうか? やはり例年よりは寒いのでせうか。稲作は如何でありますか、又海の幸もどの様な物で漁場を賑はして居りますか、自分は原町で御蔭で国宝的存在の「相馬の野馬追」を見ることが出来、方寸のカメラに深く濃く映じました。
昔の武士、其の儘の勇姿に接して。
注。昭和20年夏の相馬地方の天候は、寒い日がつづいたという。
「相馬の野馬追」を見ることが出来、撮影もしたという。おそらくは短き生涯の最後に、異郷の地で日本の武士の祭礼を感動をもって見物した。
しかし、昭和20年の野馬追は公式的には認可されておらず、有志による少数の十数騎の会合であったようだ。それも、空襲警報で散らされた、と参加者は回想している。
それでも、中世から近世にかけての日本文化の美の一端を、みずからも武人である兵士として、賛嘆の視線で実見し、郷里富山の父親に報告する國友少年は、このとき17歳だった。
この頃、近海の浪江町請戸お気に出現した米国潜水艦による木造漁船に対する艦砲射撃や、大型水上機による相馬、浪江での漁船港湾への銃撃があった。
また翌月8月には、東北最大の空襲が行われる。原町飛行場の通信兵である國友君の運命の日となった。
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