持舘勝さん 原町航空隊爆装係

昭和19年4月から原町飛行場に勤務した。同期には渡辺、新関などがいる。
最初は飛行場の兵舎で生活し、厳しく教育されたが、その後は軍属職員は飛行場の近所の馬場の志賀、佐藤という農家に8人ほどづつ分宿して、朝になると歩いて飛行場まで出勤した。
同期のほとんどが整備にまわされたが、持舘さんはなぜか爆弾の発着などの爆装を担当させられたほか、19年後半からは敵のレーダーの防御網を警戒して夜間戦闘にそなえた夜間訓練のための滑走路に照明灯を電装する工事や、双発練習機などの電気系統とくにバッテリー調整も担当させられた。面白いところでは場内での映写会で娯楽映画の「えのけん」フィルムなどの上映で映写機の保守管理の担当もやったという。
青森の油川飛行場に転勤になって仙台空襲の頃の7月には青森にいた。八甲田山には高射砲も備えられていたが、高高度の敵機には弾丸が届かなかった。
油川飛行場からは青函海峡の連絡船が敵襲でみるみる沈められる情景も見た。
8月の原町空襲の直前に、原町飛行場に戻ったが、着いた日に相馬農業学校の校舎に泊って飛行場に出勤するとすぐ空襲に遭った。なにもかにもぐちゃぐちゃだった。混乱して、
終戦後には、艦載機が空襲で投下していった不発弾の処理も専門に行った。猛爆にちかい銃撃爆撃で、大量の不発弾が遺された。それを大きな穴を掘って信管をとりつけ、導火線で爆破処理した。
同期の原長記は戦後、洞爺丸で死去。
同期の仙台の新関、東京の渡辺氏らを語り合って松島に遊び、松川浦に遊び、例年の原町飛行場慰霊祭にも参加してきた。

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