仙台市青葉区在住の新関芳信さんは相馬郡八幡村の生まれ、19年4月から原町飛行場の整備兵として石神村の農家に分宿しながら勤務しながら、印象に残ったというのが同盟国の外国軍人だ。「最初は色が黒いので黒人かなと思ったが、違った。」

原町飛行所にタイ陸軍航空将校が鉾田経由で留学にやってきたのは昭和19年。19年秋から特攻で下命された教官クラスの乗る99式襲撃機や二式双発戦闘機「屠竜」は出撃していったまま戻らず、高等練習機が残っただけ。飛行演習どころではなかった、という。二人の外国員留学生の将校は2機だけあった双発軽爆撃機の操縦と整備を研修していった。カムランとチャウダーという名前はよく覚えている。縛帯という飛行服につけた装具にカタカナで名前が記してあったので記憶に残った。

65戦隊の一戦闘機の「ハヤブサ」が来たのはそのあとだ。「あれ(隼は)脚が弱くてね、いい飛行機ではないなと思った」という。19年末に、離陸時の事故で尾輪が壊れて修理した体験談が、慰霊祭の座談会で出たことがあった。「中野目さんには一番お世話になった。太田の京谷さんという先輩からだいぶ叱られながら教えてもらいました。持舘さんらが一緒の仲間。勤皇隊と一緒にフィリピンに行った新妻幸雄さんなんかも一緒の整備兵でした。」

 

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