昭和18年 整備軍属として就職し兵士となった少年軍属 新妻幸雄
新妻幸雄は高平村泉の農家に大正14年生まれ。父親が写真趣味に熱中し、息子が地元の原町飛行場に軍属として就職し勤務すると、その雄姿を記録した。父は、そのいとこ新妻要とともに原町のカメラ愛好会「光生会」の会員となって原町周辺の風物を撮影した。
幸雄の上司の軍曹はこれを知って、しばしば手持ちのカメラで撮影したネガに現像と焼き付けを依頼したという。
軍隊では、下士官の軍曹に下位の兵や軍属が気やすく声をかけることなど見咎められたので、あまりにしばしば呼び出されて親しくされて営内で幸雄は気を遣ったという。
写真は昭和18年の撮影。原町飛行場は1月1日より明野飛行学校の分教場に移管されて、戦闘機の操縦科目になって、新鋭の97式戦闘機の実戦教育になった。
18年後半は水戸飛行学校の分教場となり、銃撃、偵察、爆撃と多様な訓練を行った。
新妻幸雄整備員の思い出。
水戸戦技学校時代の新妻整備員。
マニラに着いてから、米軍の猛爆撃の洗礼を受けた。特攻出撃を見送った後に、もはや彼ら整備員たちのカエル飛行機はなかった。海軍の重爆撃の帰還に拾ってもらって、からくもフィリピン戦線から日本本土まで帰り着いた。途中、台湾から中国本土を経由して帰ったという。
日本についてすぐ、年末の12月のうちに兵士として入営させられ、鉾田飛行場の整備兵として、あらためて「兵士」となった。
戦後は製塩会社に勤務したり営林署に勤めて生計を立ててきた。
「慰霊祭にきた増田良次さんの遺族が原町に来た時には、わたしのアルバムから、写っている写真はそのたびにあげてしまって、ここにはない。」
増田さんという人は、ほんとうに優秀ですばらしい人でした。
マニラ空襲のときはすごかった。
フィリピンまで行って、勤皇隊全員を見送ったが、私らの帰る飛行機はないんです。
海軍が内地に戻る重爆撃機に、拾ってくれたおかげで帰れた。
制海権も制空権もアメリカ軍に支配されているので、台湾からいったん中国本土を経由してから日本本土に帰って来た。
原町では、今野酒屋の長英さんと一緒でした。今野長英さんの長男晋一氏は原ノ町駅前のセブンイレブン店を経営している、かつて青年会議所の仲間で顔見知りだ。
店頭の10円コピー機で拡大コピーして、晋一氏にさしあげた。
「この写真は原町飛行場の地元軍属が写っていて、君の親父さんがいるって聞いたが、どれだろう?」
※昭和17年頃 地元採用の飛行場雇員
彼はすぐ、「これだね。よく似てる」と指摘。
雲雀が原に集まった地元の少年軍属たち。飛行場の青春。背後にはやがて陸軍特攻でもっとも多数使用された99式襲撃機が並んでいる。戦争中ではあるが、日本の地方の男子の、無邪気で健康的な笑顔が輝いていて美しい表情なので、こんかいの展示会ではぜひ市民に紹介したい一枚だ。