浜田芳一

56期 32FA
昭和18年5月26日、航空士官学校を卒業して、少尉に任官後、私は6月23日、同期生32名とともに、鉾田陸軍飛行学校原ノ町分校に入校し、襲撃機の操縦訓練を受けた。
科目は、飛行編隊・夜間飛行・襲撃・射撃などで、精神教育ではザックバラン組と謹直組に分けられて行われた。私と東条君は前者で、有田君が後者にいたように思う。
約五ヶ月の教育を終え、11月26日、それぞれの部隊に配属が決定し、飛行第32戦隊は有田、東条、私の3名と決まり、他はそれぞれ散っていったが、29名が戦死し(殉職を含む)、現在私を含めて3名が生存しているのすぎない。
原ノ町分校で、任地発表の折には、浜田、東条、有田の順で発表されたが、これが後になって操縦の腕前の順で、頭の良さの順はこの逆であることが分かり、お互いに笑ったものだ。

東条君は小柄だが、不敵な面魂、酒も強く、満州で共に飲み明かしたことがある。出撃の日の精悍な顔が未だに目に浮かぶ。
東条澄徳 鹿児島県出水郡東長島村鷹巣729 56期、32FA
辞世 丹心貫日 吾こそは雲散るかばね大君の しこのみたてぞ みそら護らむ

56期の人々

長岡豊 56期 27FA
西嶋正雄 56期 27FA
東睦夫 56期 65FA
平井卓 56期 90FA
真野力 56期 27FA
武藤正夫 56期 原町殉職
森本幸夫 56期 66FA
若林三慧 56期 八日市殉職 56期
故若林君は、襲撃機の要員で、福島県原ノ町の鉾田陸軍飛行学校(軽爆)の分校へ、航士校卒業後、共に進み、大変親しい同期生であったが、同分校卒業後、名簿によれば三重県八日市の中部第94部隊に配属され、私は満州に赴任したため、互いに便りを交わす暇もないままに霧が峰で亡くなられたことを聞いた。
退避分散の訓練飛行中、濃霧のため山腹に衝突せられたそうである。
同君は非常に朗らかな人で、独特の仙台弁で、人をよく笑わせていたことを覚えてる。
襲撃機の生き残り同期生は、いまや二、三人しかいない。感無量である。

小高町岡田の殉職地点

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昭和18年の小高町岡田地区の山に墜落した二人の航空兵が殉職。「雲雀が原飛行場の整備班」という本に、やっとつながった。同級生の二本松君のお姉さんさんからの情報。

青田恵子さんからの手紙 2015

祖母のことにふれますと、原町飛行場の兵隊さんか? おせわした時の兵隊さんのお礼のハガキ、手紙が数通、お仏壇の引き出しに入っていました。
どれも感謝の言葉がつづられていました。岡田の山に殉職された兵士の慰霊碑も小さい頃、きのこ採りに行きがてら連れて行かれたことがあり、こんな近くにも戦争遺跡がありました。食糧難の時代、家に泊めて精一杯のもてなしをしたことが、手紙の内容から察せられました。写真も見たことあり。
そうそう、今思いだしましたが、慰霊碑には連れて行かれた時の祖父の話、殉職した兵士の足がちぎれてあっちの方向に飛んでいた等と説明していたので、きっと現場に立ち合っていたのでしょう。夫は原町出身。青田恵子さんは小高町出身。夫は大津地裁の高浜原発を止める原告団29人の一人。

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