業務用固有波長が一万六千㍍余という、極めて長大な長波を発射するため、その送信用アンテナは自ら巨大な構造にならざるを得なかった。その巨大なアンテナ線を空中高く架設するための塔が必要になり、むしろこれは土木工学の分野である。
かつて、開所当時に使用した十八本の木柱は、渡辺幸太郎の設計であったが、改修後はこの代わりに高さ二百㍍の鉄塔五基を、東京帝大工学部教授の永山弥太郎氏の指導下に、北原栄技師が設計、建設監督に当った。
五基の鉄塔の位置は、コンクリート塔を中心として半径五百㍍の円周上に、底部を台地に絶縁した球状承軸装置を取り付け、相互の間隔五三五㍍を保って構築された。
それぞれの場所は、現在では住居などが建て込んで分からなくなっているが、当時の略図と突き合わせてみると、
一号基 深谷瓦屋附近の路上
二号基 原町トラック運送附近
三号基 渋佐街道沿、トヨペット裏側
四号基 佐藤釣り具店の東百㍍畑の中
五号基 高見町二丁目、畑の昭和42年に出版された「原町市史」このうち四号基と五号基の台座のコンクリート残骸が転がって、場所だけはわかる。
「原町無線塔物語」よりp159参照
ただしここで一号基と呼ばれているは実際には二号基である。
昭和42年に出版された「原町市史」のp730には、副柱の項目が掲示されているが、任意の通し番号として番号が振ってあるだけで、無線塔を中心とした副柱設計上の必然性ある通し番号ではないのだ。
原町市街の西側に大多数が住んでおり、彼らの世界観は常磐線の西側だけがすべてだったから、無線塔というのは世界の外の外宇宙なので、駅から東へ踏切で入ってゆくので、最初にぶつかる踏切の根っこに建っていた副柱は、設計上は二号基であっても、生活者にとっては常識として「一号基」なのである。
この意識のずれで、独自の原町世界観の記述が行われ、世界の常識(歴史や国書の認識という意味での常識)とずれる。
私も、わが町の住民であるかぎり、「原町市史」記述を無視できない。
尊重せざるを得ないので、市史の記述の通し番号に合わせて記述したために、副柱の位置についてもずれている。
具体的地名を基準に、頭の中で建設当時の様子を思い描いてほしい。
「原町市史」の筆者は、市史編纂のスタートした年に、小学校を退任した草野信原町第一小学校長が渡辺市長から命じられて以後八年の歳月をかけて脱稿し、ついに出版の日を迎えたものの、市長選挙で渡辺敏氏から山田貢氏へと移っていた。
さて、同じころ、無線塔下に生まれて、原町第二中学校の中学生だった高篠文明氏は、純粋な好奇心から生まれる前から日常的な存在だった無線塔について自分なりに調べてみようと近所の古老から昔の無線塔のことを聞き調べているうちに、開局当時の無線塔がのちのたたずまいと全く違うことを知った。
草野退職校長も高篠少年も、「日本無線史」という磐城無線電信局長の米村嘉一郎氏が詳述した国書を読んでいない。
同級生の高篠少年が「今度出た原町市史の無線塔のこと、変だよ。間違ってるんだ」