フクシマ・ノート#特別編
            日々新たなる原町無線塔の魅力
                 二上英朗
1 原町無線塔の魅力
 すでに存在しない町のシンボルだったランドマークの思い出の心象が、35年もたっていながら未だに多くの人の興味を喚起するのはどうしてだろうか。
 関東大震災から90年という記念すべき年廻りとなった2013年には、南相馬市博物館で史上初めての特別展示会が開催されて、監修を担当した。展示パネルはそっくり初めてのゲンロン・カフェという出版社が経営するギャラリーで首都東京で披露された。
 しかし盛大な横浜での震災復興キャンペーンでは、地方福島県原町のローカルな建造物の物語など、知られずに終わった。その一方で高層タワーのスカイツリー人気は新しい観光スポットとして強力な磁場となっている。
 それと同じことが、90年以上前に、この南相馬市原町に現出したことをどれほどの人が知るだろう。原町無線塔が着工された1919年の大正8年には、巨大な直径の穴が穿たれて基礎の鉄筋が敷設された。(写真1上)翌年、大正9年に原ノ町駅前の山城屋という薬問屋兼文房具店が特定郵便局を開局した。記念絵葉書の一葉には、壮大な建設途中の威容が記録されている。(写真1下)
 古来バベルの塔から、ピラミッド、仏舎利塔など高層建築物への人間の驚嘆の念は圧倒的な畏怖と崇敬があるようだ。
 大正時代のコンクリート塔の出現も、似たようなセンセーションを巻き起こし、地方都市原町は算数、地理、歴史の教科書に載り、名物・名所として人々を蝟集させたのだ。

2 巨大無線塔の時代
 世界遺産のうちでスエーデンに鉄筋無線塔の文化遺産がある。これとセットで高周波発電機という当時最先端の無電送信機が現存し、アメリカに移民していった同胞との通信のために活躍した時代を永遠に記憶するために、この機械が保守保存されて年に一度の記念日には、じっさいに稼働されて活きている。ヴァールベリのグリメトン無線局である。(注3=https://worldheritagesite.xyz/varberg/)
 原町の無線塔は、とうじ海外と通信できた唯一の国際無線局だったと信じている人がいるが、実は千葉県船橋の海軍無線局がすでに存在していた。第一次世界大戦のどさくさにドイツ領の中国青島(チンタオ)を掠め奪って、賠償金がわりにドイツのテレフンケン会社の無線装置をそっくり割譲させたのだ。
 原町の無線局は、海軍に独占使用された逓信省が、外交交渉で遅れをとっている政府の焦慮が、貧弱な国家予算を割いて、大戦で暴騰した鉄筋に代わるコンクリートで建造した高層建築物としてユニークであるばかりでなく、電弧式発信機という初期の原始的送信機を、時の技官佐伯ミツルという工学博士が英米雑誌の写真を見ただけでオリジナルな装置を作ってしまったという。トヨタの創業者となった豊田佐吉が、少年時代に博覧会で実見しただけで欧米の紡織機械を真似て、自作で国産自動織機を作りあげた逸話に酷似している。
 実は海軍は、佐世保にも150mのコンクリートの無線送信塔を3基建造しており、原町の塔にそっくりな針生無線塔は、いまも健在で、さきごろ文化庁が文化財に指定した。
 名古屋近郊の刈谷には、原町が対米であったのに対して、対欧の国際長波無線局があって、原町と全く同じ巨大無線機がごっそり残っていて博物館で見ることができる。2013に訪問し見物してきたが、ここに来れば原町無線塔のメカニックの実際を体感できる施設なので、ぜひ見学をおすすめしたい。
 原町第2中学校時代からの親友高篠文明君は(手前)、昭和43年に出版された「原町市史」の原町無線塔の記事がことごとく間違っていることを指摘。中学生ながらアウトラインを調べ上げ、高校2年生の時に、富岡町まで取材にゆき駅から歩いて現地まで訪ねた。磐城無線電信局の本部跡地まで特定し、さらに200mコンクリート塔の頂上まで登って写真を撮り、ぼろぼろに剥がれた表面の様子を記録。依佐美(刈谷)送信所の250m鉄塔8基が、原町にあった5基の鉄塔と同じ設計であることまで教えてくれた。青春の日の思い出が、60歳に還暦になって同級生として、なつかしく同行できた。ぼくのデビュー作「原町無線塔物語」は、彼がインスパイアしてくれたおかげで、学生時代に書き上げることができたのだ。刈谷送信所博物館で河野和夫氏撮影。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=533700863387710&set=a.313207862103679.70515.100002434029760&type=3&theater
 加えて刈谷無線博物館視察で知り合った現地のコレクター河野和夫氏から原町無線塔の未確認絵葉書セットや開局式招待状などを譲り受けることが出来て特別展示に花を添えたほか、2014年の会期中に同氏も展示会に来訪し、副塔の巨大コンクリートブロックや塔跡地の現地を案内するなど交流を深めた。(写真4)
写真2=河野和夫氏から入手したカラー版の絵葉書の一枚
(https://www.facebook.com/photo.php?fbid=527302047360925&set=a.313207862103679.70515.100002434029760&type=3&theater)
写真3=河野和夫氏から入手したカラー版の絵葉書の一枚・背比べ
(https://www.facebook.com/photo.php?fbid=532102653547531&set=a.313207862103679.70515.100002434029760&type=3&theater)

3 無線塔は日々に新しい
 かつて無線塔が立っていた地点は、日の出町の我が家のある住宅街に隣接して300mほど東側の現在の「道の駅」駐車場で、毎日台所の窓から解体工事を観察していた。次女が生まれる頃の1982年7月31日の大成建設による工事安全祈願祭から83年3月2日の解体工事終了まで、膨大なビデオに収録してある。
 解体か保存かという市民的論議から臨時市議会での解体予算の承認、テレビ局の取材、工事の克明な進展、ヘリコプター空撮などなどのほか、実際に工事エレベーターで頂上部分に上っての撮影、コンクリート爆破実験などあらゆる場面に立ち会った。
 その後も数年おきに我が家にやってきたテレビ局や原町高校放送部の歴代のスタッフが、それぞれの時代の番組に写真を借りていった。時々、町のイベントで上映されるが、愛着がないと誰がどんなふうに撮影したのかもだいたい忘れられている。
 解体されたのが1983年だから、もう35年も経っている。実際に見た記憶を語れるのは40歳以上の人間だけだろう。70年前に終戦を迎えた太平洋戦争をリアルタイムで語れるのが75歳以上の世代というのに似ている。東日本大震災の地震と津波を語れる世代も、同じように後世にだんだんずれて行く。
 ところが、長年この無線塔について本や写真集を出版してきた私にとっては、時代がたてばたつほどに多くの新しい知識が加えられてきて、より面白く理解されるのだ。
 八木・宇田アンテナは世界中のテレビ受信機の普及と共にすべての家の屋根を占領したが、70年前の戦争のレーダー開発と不可分の技術だった。
 磐城無線局の廃止で、原町の塔はたちまち無用の長物となったが、実は東北大学航空無線研究所の実験施設という第二の仕事をした事実が知られていない。
 飛行機の航跡を追う電波兵器の開発は八木博士の原町の高塔での研究で学術論文になって欧米の追随でレーダーの実現を見た。太平洋戦争で日本皇軍は「最後は神風が吹いて日本が勝つ」との空念仏と貧弱な生産力の国力を誇大妄想狂的な狂信妄信ゆえに、地道な基礎科学研究を軽視して、珠玉の発見をウサギと亀のごとくに追いぬかれてしまった。
 電弧式発信機の強力な電磁石は仁科博士の理化学研究所に譲渡され、原子物理学の教育に役立てるため昭和12年の国産サイクロトロンにそっくり応用された。陸軍はこれをウランの濃縮技術を急いで国産原爆の実現を夢見たが、敗戦によってGHQ連合軍総司令部が国産サイクロトロンを没収し、東京湾に投棄する記録フィルムも最近になって米軍ニュース・フィルム「Stars and stripes(=星条旗)」で確認できた。
 昭和3年に原町で初めて撮影された無線塔の実写動画も、「映像で見るはらのまち100年史」(https://domingo.haramachi.net/haramachi-100year/)としてyoutubeにアップした。郷土史も現代と世界と同時に生きている。
 注。仁科博士の理研が作った国産初の1号サイクロトロン。磁界を発生させる電磁石は、原町無線塔の送信機である電弧式発信器を転用したもの。原町の無線が廃止されて昭和11年に理研に寄贈され、昭和12年に国産サイクロトロンが完成した。
(https://www.facebook.com/photo.php?fbid=491417524282711&set=a.313207862103679.70515.100002434029760&type=3&theater)

4 無線塔百景
 富岳百景や東海道五十三次などの版画は、江戸時代から日本人がポスター的趣味でピンナップを楽しんでいた。わが町にも、思い出の無線塔というスナップ写真を飾ってある家庭が多い。地元庶民の高尚で安価な楽しみである。
 人気の構図は、桜の季節の高見町の塔立地地や、常磐線の鉄道と無線塔とのコラボレーションだろう。線路を跨ぐ市南部大甕陸橋から遠景の塔をバックに近景に特急ひたちを配した構図は、絶好の撮影ポイントで、塔解体の最後の年の特急ひたち上り時刻午後3時45分に橋上はラッシュアワーだった。カメラマンが去った後はフィルムの空パックのごみの山が残った。(拙著「ドキュメント解体 巨大無線塔が消える」P74より)
 大正9年、原町町民は自分たちの町に建設された磐城無線電信局の高塔の頂上からの空中写真を通して、初めて空からの原町を見た。左上から折笠の堤(現在の二見町2丁目)
右側に原の町駅。直線は常磐線の鉄道。(写真3)
 中央の200mの高塔の頂上部分で、周囲500m半径に18本の木製木柱にめぐらされた空中線(アンテナ)をまとめ、二つの束にして地上の機械・通信室にひきこみ、送信機械につないだ。アンテナは地下にアースで延長して放射状に分散させていた。この対米無線の巨大な通信セットに日本政府は国家の命運を賭けて財政の何パーセントかをつぎこんだ。(写真6)
 技術革新と資本増強のため逓信省(現在の総務省)から大正Ⅰ4年に民営化されてKDDIの前身の日本無線株式会社に磐城無線局は無線塔ごとそっくり移管され、昭和2年にかけて大改造された。この全体を1980年にNHK「無線塔SOS!」という番組のためにジオラマに制作した。原町市役所に贈呈したが、展示して2週間で壊されてしまった。無線電信柱空中線の1250分の1スケール模型(https://domingo.haramachi.net/haramachi_tower/)は残念なことに写真しか残っていない。
 げんざい郷土史の文化財の再発見がいわれ、ガイドブックを編纂中(写真5)だが、1983年3月2日に東北初のレーザーショー「原町無線塔物語」を映画館朝日座で実演した。上演後に朝日座の前にレーザー設備をセットして、原町の夜空にレーザービームで地上200mの光のイリュージョンを投影した。
 これは社長布川雄幸氏の反骨の興行師魂と新進デイレクター友人高橋幸作氏が、朝日座とNHKの2企業が資金50万円を折半してくれて、当夜のライヴ映像をカットインして3月11日にオンエアされた。夢は限りなく、時代を超えて、2017年3月11日に、塔の跡地で、サーチライトで光の塔を再び建てるという。こんな愉快なことはない。
 数多くの津波犠牲者の無念を追悼し、彼等を忘れないために町の鎮魂と未来の子孫祝祭のために、すべてのことに感謝して死者たちとともに夜空に祈ろう。また現在進行形の原発事故の被災者を激励し、生き残ったわれわれが楽しく生き生きと彼等が生きられなかった分まで楽しい町を作ってゆこうと思う。

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