資材納めて大儲け
佐藤国助、明治三十八年七月生まれ。日露戦争のさなかであったため、国を助けるの意で命名された。日本海海戦の直後である。
「軍隊にいた時は北上という巡洋艦に乗っていた。原町沖に来ると三十分くらい停泊しましてね、その時、私は我が町の無線 塔いついてみんなに教えてやりましたよ。得意になってね。黒い山々を背にして無線塔が白くくっきりと、そりゃあ美しかったですよ。何しろ当時は有名だった。日本中どこへいっても聞かれました。お前原町の者なら、あの無線塔のある所かってね。東洋一の高さでしたからね。」
「建設の時は、荷車がひっきりなしに行ったり来たりしていた。うちでは鉄材でもなんでも扱ったいましたし、無線局の専属みたいなもんでしたよ。業者の指名入札では先代の和光、平の諸橋と、うちの三店でしたが、うちが地元だし、懇意にしていたから無線の人がよその入札金額を、こそっとね、教えてくれるんですよ。それより一円でも安くつけりゃ決まりますからね。それで大層うちでは儲けたんですよ。
それに、それまで金物屋だったうちでは、無線関係の仕事をするようになってから。金とかプラチナとか砲金などを扱うようになった。砲金というのは、特殊な青銅の一種で軸受けなどに使う銅9割、錫1割の合金。鋳造が容易で、摩耗や腐食に強い。ガンメタルともいう。
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