無線塔建設時の死亡事故について
2013年12月22日 ·
原町無線塔物語を脱稿してFCT福島中央テレビの文化事業部出版部門の編集担当者に渡したのは、1976年という大昔のことだし、その頃のメモはダンボールのなかにタイムカプセル状態のままだった。
今回、博物館で初めての「無線塔」特別展示を企画して、史料を貸し出すので、あらかた穿り出してみていたら、思いもかけず、忘れていた原稿の切れ端が出てきた。
原町通信部のNHK記者の淀秀夫氏が、最初に扱ったニュース枠の話題が、「無線塔ものがたり」の原稿をぼくが書いているという一件で、駅前の珈琲亭いこいでインタビューを受けた記憶がある。はすむかいに、もうひとつ別な喫茶店があって、いまはもうセブンイレブンになっている。
あのころ、原町の古老を訪ねて、取材していた、高見町の佐藤啓助さんという鉄道員で、釣具やの老人に聞いた話。啓助さんは、無線塔の建設に、人夫として手間賃を稼ぎに出たという人物。
「二人の人夫が乗った樽を上げる。セメントとか、鉄材をいれるやつだ。片方が、ふざけたか何かして、バランスを崩して、一方が墜ちて死んだんだ」
星四郎さん
「内側から角材を組み立ててコンクリートを上げるのに、その各座を切り落としてゆくうちに、あやまって足場から墜ちて死んだ。」
別な時期に、別々に死んだ事故だったらしい。
二人の人夫の氏名も判明している。東洋コンプレッソル社のとび職職人である。
もう一人、昭和3年の大改修工事で、地上作業員が一人死んだ。工事における墜落事故は、二件二人。地上作業員が、ウインチ誤作動での、事故死。
名前はすべて、「物語」記録してある。
のちの、解体作業の味マルとき、当時の原町市役所は、懸命に探して、内閣統計局の職員で、永山弥太郎という工学博士の孫という人物を探し出してきた。
ところが、これは実は、永山博士でなく、真の設計者は同じ東京帝大工学部教授の草間功博士だった。原町市史という自治体の分厚い本に、間違いが書かれてあったからだった。旅費まで出して、不要の、間違った人物を招待しただけのことだった。お役所というのは、間違いを認めない。ずっと、今まで、そうしてる。悲しいかな。今回は、間違いはさせない。