塔はもはや学術的な調査を済ませて取壊しを真剣に検討すぺき時期に到達しています。 世界にも稀有な660フィートものコンクリートアンテナ塔は、電波技術史の創始期 にとり残されてしまった短命な長波時代の象徴的遺物であり、これを記念碑として 見立てるならばその意味は、あくまで技術史の一側面のものとしての意味でしょう。 いかなる文明も永遠であることは不可能であり、一時代の文明は、新たな文明の介錯 によってその地位を得るよりほかに道を選ぶことができません。 私たちの世代において、その存在を打ち切って見事な締めくくりをつけてやる勇気も また強く私たち自身に問わなければならぬと考えています。
既に頂上部分のコンクリートは、50年間の風雨雪に晒されてひび割れ、相当剥落し 赤さびて腐蝕された鉄筋をむき出しにしています。手でおすと、頑強であった壁面は 今にもこぼれそうなモルタルの如くパカパカと動きます。ひとつの技術の生命の終り が来て寿命の果てに歴史的な記録として紙の上に移しとられるべき時なのだと思いま す。もとより私の関心は技術史的側面ではなく大正時代といういわば私たちの国の 近代史上のユニークな戦争時代であったころの男たちのパイオニアとしての生き方 にロマンを見出そうするのが狙いであり希望です。

このたびの解体工事は、老巧化した塔からしばしば剥落したコンクリート塊が落下する という被害が相次いだため、県と市が着工を決定、約5億円の巨費を投じて行われてい る。機械力のなかった大正時代、セメント樽も鉄筋もすべて馬車が運搬し、人夫が人力 でセメントをこねて築造していった。現在の工法は、近代科学の粋が発揮され機械の力 が物を言う。ハンドブレーカーや軟化薬発破など多様な手段が用いられるが、難工事で あることは昔と同様である。
明治大正という時代は、国家創生の夢が国民と国家の共通のロマンでありえた。いわば 国家と国民は、国家建設という名のもとに、共通の言語で語りあえた。しかし近代化の 両者の通じない隔たりを作ってきたかのようである。

原町無線塔もまた、貧しき国力の時代に、地元の熱狂的な誘致運動と政府の対外政策の 必要とかが一致して完成したのであった。それは時代精神の昴揚した短い時期のいわば 幸福のひとつの夢であった。

さて、一本の巨大な塔が解体されることにめぐりあわせた原町市民は、素朴な気持ちで 解体を惜しんでいる。産みの親である国側はどの部局もこの問題に対処する動きを見せ ない。結局原町市は身に余る光栄の中に巨費を投じてみずから解体の任にあずかった。

かくして原町市民の誇る原町無線塔は永遠にこの世から消滅したのであります。

・・・注 記・・・
無線塔解体から今年で35年、 無線塔跡地は、花時計が設置され周囲は綺麗に整備されドライバーの休息の場として「道の駅・南相馬」が、又、 無線塔の頂上部は博物館の玄関前に設置されている。

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