• 原町無線塔の発信機で作られた国産原爆用サイクロトロン

    原町送信所の最初の送信機であった電弧式発振機は、その後長岡半太郎博士の斡旋によって、付属の直流発電機と一緒に、理化学研究所に寄贈され、そこで仁科芳雄博士の指導の下でサイクロトロン(素粒子加速機)に改造され、元素の人工変換、人造ラジウムの研究に利用され、戦前の日本の原子力研究という第二の使命を担ったが、第二次世界大戦の敗戦によって軍事機密として棄却され、海中に没した。
    「原町無線塔物語」p172

    原発事故に至る原子力開発の歴史を検証するNHKの特集番組が深​夜、再放送されたので、二日にわたってつきあった。太平洋戦争の​検証番組もそうだが、今頃「いまだから話すが」という担当官僚た​ちの、自分の責任を安全地帯においたまま、歴史に事実を残すため​と称して、毎月茶話会をしているそうだ。いまさらちゃんちゃらお​かしいが、収穫はあった。
    政治における原子力開発の経過については、新聞や本を読んでおれ​ばほとんどわかっている事実を、いまごろそれが深層だなどと解説​されてもなにの意味もないが、さしはさんだ古いGHQフィルムの中に、​新発見があったのだ。いままで公開されてこなかった秘密フィルムで、米進駐軍兵士が​黒い金属製の巨大な物を壊して投棄する一場面だ。
    戦後、いちはやく米軍は、日本の理研から国産サイクロトロンを没​収して破壊。原爆を作らせないためだった。そのフィルムを撮影したものをGHQの資料から掘り​出したなかに、なんと、わたしが追いかけてきたテーマに関わる、​原町無線塔の国産発信機が出てきたのだ。
    無線という技術が発明された時に、欧米列強はそれが国家の趨勢​を決定する最先端技術であり開発競争はしのぎを削った。近代化を​まっしぐらの日本では、明治期、国際博覧会で最新鋭の機械の外観​を見ただけで、工夫して同じ性能の機械を作り上げしまうだけの知​恵と技術を準備していた。
    大正初期、海外雑誌の電波発信機の写真だけを参考に、逓信省佐​伯美津瑠工学技手は国産の電弧式発信機という巨大な電磁石付きの​黒光りする鉄の釜のような機械を作り上げ、国産の国際無線施設で​ある原町無線送信所で使用された。
    炭素電極に強力な電圧をかけて火花スパークを巨大なアンテナで放​電させて遠距離の国際無線に使った最初期の代物だが、すぐに高周​波発生器という発電機を通信機にしたものに改良されて、初代オリ​ジナルは昭和初期に理化学研究所に供与された。
    理研は仁科博士がひきいる日本の原子核物理研究のセンターで、戦​争になって陸軍から原爆製造を命じられ、基礎研究のため、あの鉄​の釜はサイクロトンとして使われたという記述は「日本無線史」で​読んでいた。
    わが町の無線塔の機械技手として働いた当時の職員の古老へのイン​タビューで、制服の金属ボタンが全部電磁石にひっぱられて、こっ​けい映画の一場面のごときその強力なことは聞いていたし、黒光り​する鋳造の鉄釜の形状の写真は取材で入手し、なじみがあった。
    それが、古いGHQの歴史的フィルムの中で再会したのだ。
    わたしの著書「原町無線塔物語」の中にも、数行紹介してはあるが​、国産サイクロトロンの開発秘話は、これだけで一冊の本が書ける​ほどのロマンをかきたてる。
    阻止された日本の原爆開発
    1937年(昭和12年)に仁科芳雄研究室が日本で最初のサイ​クロトロンを完成させた。1943年(昭和18年)に大型サイク​ロトロンを完成させた。
    1941年(昭和16年)、陸軍の要請を受け、仁科芳雄が中心と​なって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)を開始。
    1946年(昭和21年)、太平洋戦争終結とともに連合国軍司令​部の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理​研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄さ​れた。公職追放された大河内所長に代わって仁科芳雄が第4代所長​に就任。
    とウイキペデイアにはあるが、ここでいう大型サイクロトロン(昭​和18年完成)が、原町にあった原型である。国産初のサイクロト​ロンは、復元され一般公開されているが、大型の二号機は形状も写​真も不明だった。
    時事通信社の不動尚史記者は米国立公文書館で米軍による戦前のサイクロトロン破壊に関する多くの写真を発見した。その一部は配信されて日本経済新聞、京都新聞などの2008年8月25日の記事となって写真が掲載された。
    昭和20年11月のある朝、進駐軍兵士が理研のサイクロトロンを​没収し、破壊し、東京湾に投棄した経緯。http://www.iic.tuis.ac.jp/​edoc/journal/jhk/j3-3-1/
    正確にいえば、大型サイクロトロンのまえに、小型サイクロトロン​を完成させており、これが実際には素粒子加速器の成功例であった​。原町のものは、こちらのようである。日本無線株式会社からの寄​贈、というのがこれ。当時の原町無線送信所は、廃止されており、​使える部品を国策協力のため提供された。http://www.riken.go.jp/​r-world/info/release/riken88/​book/riken88-02-01.pdf
    写真をみると、鉄釜の部分ではなく、電磁石の部分を応用、転用し​ているようだ。65センチの第一号というものこそ、日本発のサイ​クロトロン。日本の原爆開発は、終戦によって阻止されたが、あの​まま行けば、日本も太平洋戦争中に原爆を作り上げていただろうし​、出来ておれば、すぐに使用しただろう。できなくて良かったよう​な気もするし、できておれば今頃、もっと凄まじい軍国主義日本が​、世界を恐怖支配してたかも。
    いずれにしても、平和で豊かなボケ国家日本にわれわれが生きてい​ることもなかったろう。わが町の歴史が、原町無線塔を通じて、最​先端の核技術とつながっている。原爆開発も、核災害の被害地とし​ても。
    U-234 というドイツ軍潜水艦が、最高機密を帯びて、日本に向かい、原爆​材料の高濃度ウランを運んでいた。
    仁科博士が開発中のサイクロトロンに呼応した作戦で、二人の日本​人士官が乗り組んでいたが、米軍に拿捕される時に自決。
    日本の原爆開発も、阻止された。http://ja.wikipedia.org/wiki/​U-234

    ウラン235を濃縮すると、ウラン原爆の材料になる。
    プライムテン スクープドキュメント

    映画「ラストボート」日本語
    https://www.youtube.com/watch?v=tI68IwoU5Jw

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