6.14

富岡の飯土井泰さんから電話有り。6・5号に載った無線塔ものがたりに出ていた米村さんの息子とは同級生です。

父が富岡の開局と原町の開局の時に呼ばれて出ました。

バナナの皮をむかずにかじった人があったそうです。それから、チョコレートの銀紙をむかずに食べたとかいう話も。

フランス人の技師が、手紙を出しに町の郵便局までスポーツカーで出た。

車も何もない次代でしょ。そりゃあ、驚きました。

住所 富岡町小浜字中央112

6・26(土)

日の出町に帰りがけ、すこし雨模様。

かどの星利美さん宅をおとずれた。

若い。あまりよく詳しくはない。星豊さんの電話を尋ねる。

星利美さんは70歳。大正10年に13歳ぐらいだから。

「わすれっちまったよ。仕事っていってもなあ。塔のまわりに鉄板を張って、ボルトとナットで閉めるんだ。」

6・24

佐藤啓助さん。

「二人の人夫が乗った樽を上げる。が

片方がふざけたかなんかして、バランスをくずして、一方が落ちて死んだ。」

日時不明

サンフランシスコで受信したのはブラウン技師です。

ミスター。ブラウンは、その後、RCAの対抗会社へ移籍し、同社の派遣で、しばらく日本へ出張し駐在していた。

参考ほどに、「深海の使者」「風船爆弾大作戦」

欄外に243p×2・14枚=520枚 との計算書き込みあり。単行本の枚数らしい。

Isasaka dassai という署名の落書き

志賀嘉吉 求氏夫人による

当時の「屋上制限」というのがある。

近所の世話役のような存在。

息子の求は、遊び人で、商売をしないで、なかば蓄えを食い、孫のトラヒコが

ややたてなおしたが、トラヒコは商売以外には何もしないようだ。

嘉吉は、信心深く、人には公平。

無線塔博物館 取材を終えて

 

「無線塔ものがたり」と題しましたこのシリーズは、正確には小説ふうの物語りにはなりませんでした。あくまで取材ノートの域を脱しないものですが、記録は正確に、なまのまま本文にはさみながら、サンドイッチのようにすすめてきましおた。筆力不足のうえに、専門的すぎる記述が多いので、つまらないかも知れませんが、ある程度まで、詳しい記録を残したいという希望で臨みましたので、その点ではご了承いただきたいと思います。

さて、一口に無線塔と言っても、私達以外の地域の人々には、皆目何のことだか分らないでしょう。

日本の歴史にからまる背景から解き明かさないと、これの存在を説明することはできないのです。そんなわけで、東京を中心にいろんなところへ取材に参りました。これを目録風に列挙しますと、

1、無線塔一基 福島県原町市高見町 どこからでも見えます

2、磐城無線局あと 双葉郡富岡的小浜深谷 ちょっとわかりずらい

3、NHK放送博物館

4、川口鳩ヶ谷第二放送所

5、調布市つつじが丘の米村局長

6、横浜港

7、銚子無線局

8、神戸

取材先で、ノート

〇郵政省関係局にて 2月12日 7枚 スミ

○KDDにて 2月13日 20日 5月6日 7枚 スミ

○ 外務省外交資料館にて 2月18日

逓信博物館

NHK総合放送博物館にて 2月11日 19日

NHK川口放送局にて

NHK鳩ヶ谷放送局にて

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