1966年の原町市史の決定的な間違い
副柱の5点ポイントは無線塔の周囲半径の500m円周上の五角形ではない。
円周上の六角形のうちの5点に建設されている。一点だけアンテナ空中線が張っていない南側がぽっかり空いている。その方向が富岡町の受信所があって、磐城無線原町送信所からの強力な発信電波が、アメリカからの微弱な電波と混乱しないように、わざわざ電波を南に出さないようにする当時の技術ゆえであった。原町市史の副柱の通しナンバーでは、南開口が、ずれてしまう。もともと円周上の6点と5点では、360度を6で割らねば角度が出てこない。無線塔中心の6割角と5割角では、かなりずれて歪んでいるはずなのだ、2点の副柱の間隔が不明なのに、自信たっぷりに現実の土地に副柱の位置を書き込んでしまったのは、自分の町のことだから間違うはずがないと思い込んでいるからである。筆者の草野信退職校長は、おもに役所の文書に典拠して膨大な市史を書き上げた国語教師であり、初歩の美術的な観察眼がないうえにフィールドワークで正確な現実の調査をせずに、副柱ステイのコンクリート塊が、昭和42年にはまだまだごろごろと存在していたので、隣の副柱セットの所属を、左右の隣接副柱に所属させて無理やりあてはめると、印象としては、納得できる。草野氏は実際に現場を歩いたか、近所の古老から聞き取りもしたであろう。それでも設計図の存在を知らずに、現場の印象から自分が想像した無線塔の実像を思い描くことは非常に困難だ。略図もつけて活字で表記すれば、いちおう正しい歴史との印象を原町田舎の読者には感じさせる。けれども「原町市史は間違ってるよ」と喝破した中学生の高篠君は、すごい。ほんとうの知性というのは、毎日すぐそばで生きてきた少年の純粋な「この塔は一体何なのだろうか」という疑問のほうが、真実に近い。わたしは高篠君の弟子として、彼の手法で歩いて関係者を訪ね歩いて「無線塔物語」を書き上げた。それでも、行政者もライオンズクラブも、間違ったままの1966年市史をコピーしつづけたのである。
特に教員や医者といった猛勉強して頭でっかちの人の場合は、意地とかプライドを力の原動力にして書き上げるので、できあがった作品は見事に滑稽な、笑える内容になる。
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