権威に弱い歴史愛好者たち 「原町地名考」を評価する論考.
作成: 二上 英朗 日時: 2011年11月9日 4:11 ·
無線塔の副柱は昭和16年以降も残っていた。
平成7年8月の野馬追の里歴史民俗資料館のオープンにあわせて、民間の歴史愛好家グループはらまち史談会が「原町地名考」を出版した。B5判で180ページ、3000円なり、という労作である。アマチュア歴史家の永年の努力に対して敬意を評したい。 昭和17年に、日本無線株式会社から廃墟となった送信所と無線塔を、原町役場に払い下げを受けている。この時に、すでに4本の副柱は、日本無線株式会社の外地である台湾の国際無線局や、鳩谷放送所の日本放送協会ラジオ塔に転用され、のこった1本の鉄塔だけが寂しく原町の空に残っていた。やがて、最後の鉄塔は敗戦色濃い戦争末期の金属回収のために国軍に供出された。ともあれ、「昭和16年に5基の副柱も撤去された」というのは「うそ」だ。 21ページ下段12行目。「昭和十六年」に無線塔が廃止とあるが、廃止はかなり早くて、昭和6年の頃。「廃止とともに五基の副柱も撤去され」という。これも「日本地名大辞典」からの引用だろうが、間違いだ。 五本の鉄塔が撤去されたのが、戦争中の金属回収のためだと新説を主張する人物もある。そう新刊の「相馬・双葉の歴史」に書いているのは原町のS学芸員である。町の古老によれば、というから「原町地名考」からの引用のつもりなのだろう。
数年前、南相馬市の伊賀慶一郎さんがなくなった。彼をしのんで以前に取材した彼の日記をインプットしたデータを、わが書庫の紙くず仕分けで、再発見した。
彼の日記の5月17日に、新聞記事として「無線塔の地下埋没鉄材搬出作業」のことが出ている。
そこで自分の著書の「原町陸軍飛行場ものがたり」をチェックしてみたら、巻末の原町国民学校日誌の5月26日に記述に、「無線支柱破壊後片付け謝礼三十円」と出ている。
これで、どんぴしゃりと詳細が符合した。
無線塔の最後まで残った支柱は、昭和20年5月に解体を終えて、回収された鉄材が軍需物資として当局に献納されたのである。

我が町には風聞と噂話と、住民の勝手な作り話を聞いたまま、事実として活字にする学芸員ばかりいる。
困ったことには、出版社や新聞社の人間が、学芸員や教育委員会職員などの公務員なら知識があって専門の学問的訓練を受けた高度な頭脳の持ち主だろうと思い込んでいるらしく、その結果が最悪の虚偽を活字にして、読者や一般市民に嘘とでたらめを広めてきた。彼らの罪は大きい。

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