○英軍捕虜の受領と訊問・留置・護送任務
 十三日。川内村山中で捕獲された英空軍パイロットを身柄受領し、留置し訊問。翌日、仙台の憲兵隊本部へ護送した。
 平憲兵分遣隊は平市才槌小路五十一番地にあった。
 平分隊憲兵田中勝光の回想。
 「八木原平一さん、伊藤増夫さん、私田中、右三名が平駅四時半出発。富岡警察署6時過ぎ着く。
 川内警防団(消防団)が艦載機搭乗員二名(少尉・伍長)を縄で縛り、富岡警察署の入り口右側に座らせておきました。
 そのうち間もなく原町分隊より岡分隊長さん、下条軍曹さん、三浦伍長さんなどがおいでになりましたのです。身柄引受書は三浦伍長さんが書きました。
 下條軍曹さんは、富岡毛萱海岸紅葉川河口に、わが海軍の水兵死体が上がっているとのことで、そこへ行かれたようです」
 田中勝光手記。
 昭和二十年八月十三日午後三時半頃、平警察署に敵飛行士二名が警防団に捕らえられて来ていますから、身柄を引き取りに来て下さいとの電話連絡がありました。分遣隊長の命令により八木原平一伍長、伊藤増夫上等兵と私の三名が平駅午後四時半頃の列車に飛び乗り富岡警察署に向かった。
 西側の窓より眺めれば美しい阿武隈の山並み、四ツ倉駅を過ぎれば太平洋の海岸が雄大に広がり、なんら戦争の感も無いようで、一時間あまり旅行をしている気持ちがした。列車内では誰一人われわれに遠慮してかそばに近寄らず、ちょっと離れて座るばかりであった。軍服より私服勤務の私には一般の人たちの話の収穫はなかったので残念な気がした。
 八木原さんは年配だから何か面白い話でもするかと思えば、無愛想なあの顔で睨んでいるようでおかしくなって、伊藤君と顔を合わせていたら、八木原さんも、にやりとしたようでした。あの長い金山トンネルを通過し、富岡駅に到着したのでした。
 下車したら駅員や待合室の人たちはただ無言のまま我々の姿を見て驚いているようでした。警察署に行く途中、夏の夕日を浴びながら青田の中で草取りの女の人たちが三人、四人と働いている姿が見受けられました。
 富岡駅より七百米くらい西に行き富岡警察署(現東邦銀行)に着いたのです。警察署は道路の南側にあり、一段高くなっておりました。
 玄関を入ると右側に二名の外人搭乗員が、布の襦袢に布ズボン、布のズック靴(色は薄黄色)を着用しておりました。
 山野を逃避したせいか、見るに見られぬ貧弱な様子でありました。ただ大切にしていた所持品は、女子用(肌色)の片方のストッキング一枚が我々の目につきました。
 警防団員は発見から逮捕までいかに処置したかはわかりませんが、ただ荒縄で米を俵で出荷する時のようにぐるぐる巻きにして、手は後ろに縛り、警察署に引渡して帰っていったそうです。
 警察署では手出しの出来ない人間と決め込んでか、そのままの姿で置いたのです。
 警察署でも困っていたそうで、我々憲兵の姿を見たので一安心のようであり、一般の人々も「ああ良かった」と自分たちの諸行動を眺めているようでした。搭乗員の貴重品は全く無く、ただ一枚のストッキングを気にしていた。搭乗員の階級は少尉と伍長の二名と判明いたしました。言葉が通じないのには全く困っていた。
 そのうち間もなく原町より岡分隊長がおいでになって「おお、早かったなあ、ご苦労」と元気な笑顔が見えました。私たちも一安心した次第です。富岡警察署の身柄受領書は三浦さんが書き、岡分隊長指揮下に引き取られていたようです。
 あの分隊長殿の勇ましき姿、ちょび髭の下条さん、痩せ細った三浦さん等の顔がいまだに目に写って夢見る時が多々ある次第です。
 阿部班長の回想。
  十三日、富岡警察署から英国空軍パイロット外一命を捕獲している旨の連絡があり、富岡警察署から護送するため、ただちに原町飛行場からトラックを借りて、岡分隊長、下条軍曹、三浦伍長、憲兵兵長と補助憲兵らが急行して身柄を受け取り、原町憲兵分隊の留置場に宿泊させ、訊問した。
 「戦時中原女校長として」という文章を引用すれば(「学徒動員から四十年」斎藤清三)
 或る夜のこと、憲兵隊から呼び出されて、敵兵を捕らえたから取締りのため通訳せよ、との事であった。爆撃後にエンジン故障で不時着した飛行隊員で日本の竹槍部隊に捕まったとのことで、驚いたことに、二名の将校は米国人ではなく英国人であった。
 十四日、仙台の憲兵隊本部・軍法会議に捕虜二名をトラックに乗せて護送した。
 阿部喆哉の回想。
 その日の朝早く分隊の前にトラックが来て荷台に藁束が敷き詰められて、彼らはその上に寝かされた」
 空襲により、東北軍管区司令部をはじめ師団司令部、軍法会議、拘置所は焼かれていたため、輜重兵第二連隊に軍法会議が移動開催されていた。身柄は仙台憲兵隊に留置収容した。

 ○朝日新聞の投稿
 平成19年(2007年)になって朝日新聞の投稿欄に、この時の捕虜をめぐる村民と兵士、憲兵の三者の回想が相次いで投稿された。

 村人が捕虜の引渡し迫る 古平太三 横浜市鶴見区88歳
 私にとって生涯忘れられない日は、45年8月12日である。この日、私は福島県の山中で敵兵2人を捕虜にしたからだ。
 燃料用木炭搬出の任務のため、中尉だった私は兵士約20名とともに川内村の国民学校に駐屯していた。ところが山村であるにもかかわらず、10日に空襲され10戸が焼け、死者3人を出す大惨事となり、村中が騒然とした雰囲気に包まれた。
 翌々日、「山中に敵兵が現れた」と村の警防団から連絡が入った。現地の赴き、疲れ切った敵の航空兵2人を捕らえた。戻る途中、被災地区で私たちのトラックは村人100人ほどに通せんぼされた。「殺すから渡せ」「捕虜を渡したら道をあける」などと叫び、一歩も引かない。捕虜を引きずり下ろそうとするものもいた。
 私は村人の気持ちは十分理解するが、軍の命令以外に捕虜を勝手に処分はできない、と繰り返した。小1時間後、道が空いた。その夜、憲兵隊に英国人の捕虜2人を引き渡した。
 あの時、妥協していたら戦犯として露と消えていただろう。25歳の私が大勢の村人を前によくぞ信念を通した、と今も思う。
 朝日新聞 平成19年10月22日

 注1 横浜の郷土史家が仲介して古平氏がスペンサー少尉に再会したいというので、スペンサー氏の手記を翻訳した記事を添えて住所を教えてあげた。しかし、その後連絡がないので問い合わせると、古平氏は家族に反対されて断念したという連絡が郷土史家から返信が来た。

捕虜の白人兵 私も見ていた 千葉県流山市 72歳 佐久間武
 「村人が捕虜の引渡し迫る」(10月22日)は中尉だった古平氏がが捕虜にした敵兵2人を、「殺すから渡せ」という村民の要求に応じず、憲兵隊に引き渡したという話だった。実はこの2人を私も見ていた。
 戦時中、私と3歳年下の弟は、父の実家のある阿武隈高地のある福島県川内村に疎開していた。郡山周辺に軍需工場があったためか、敵機の往来が激しかった。
 ある日、敵機が墜落し、山中に逃げ込んだ航空兵2人が捕まった。これが投稿に書かれていた敵兵だ。
 校庭で2人を公開するというので見に行った。白人で、校庭の中央に置かれたいすに座らされ、後ろ手を縛られていた。憎き敵兵を一目見ようと、たくさんの村人が集まった。罵声を浴びせ、殴りかかろうとする人もいた。初めて白人を見た私は、肌の白さや金髪が印象に残った。
 投稿を読み、憲兵隊に引き渡されたことを知った。軍の命令以外に捕虜を勝手に処分してはならない、という信念を貫いた古平氏に感銘した。

 注2 川内村で若い金髪の白人捕虜を初めて見て、「かわいそう」と思ったという村人の感想は、数人から聞いている。素朴なカルチャー・ショックと、軍国主義の教条主義とのないまぜになった経験が興味深かった。学生時代に読んだ大江健三郎のデビュー作「飼育」ではB29が四国の山奥に墜落して黒人乗組員の捕虜捕虜との奇妙な交流を描いた。福島県内でもありえた敵軍捕虜との接触に、そのころから関心があった。

捕虜英国兵は「虐待」訴えた 斎藤雄一 福島県伊達市 83歳
 「村人が捕虜の引渡し迫る」(10月22日)、「捕虜の白人兵 私も見ていた」(11月19日)という二つの投稿を読みました。この一件で当時、私は勤務していた原町憲兵分隊の中が騒がしくなったのを思い出しました。
 40年8月10日。郡山空襲で被弾した英軍機は阿武隈山地方面に墜落。英国兵2人は2日間、逃避し福島県川内村の山中で捕まった。投稿によれば、古平中尉が「殺すから渡せ」と叫ぶ村民の要求に応ぜず憲兵隊に身柄を引き渡した。
 旧原町分隊隊員らが発刊した「憶い出集」などによれば、捕虜はスペンサー少尉とジョージ軍曹。体は大きく、ズック靴だった。通訳を介して調書を作成し、食事は隊員のを分け与えた。軍法会議にかけるから早く連れて来いという仙台憲兵隊の催促で、すぐに原町の班長らが仙台憲兵隊本部に移送したとのこと。
 終戦で立場は一変。英国兵は「捕虜取り扱い条項に違反して虐待された」と事実と異なることを訴えたという。原町の班長は審問を受けたが、事なきに過ぎたのである。
 朝日新聞 12月17日

 注3 「事実と異なることを」と書いているが、斎藤氏が班長の言い分をそのまま引用しているので「訴えたという」と表現している。村人も憲兵たちも、じっさいには棒や銃尻で叩き小突いたことを証言しており、捕虜が「虐待された」のは事実であろう。捕虜自身は50年目に書いた体験手記に「JAP」という強い差別語が繰り返し使われていて、まだ日本でのトラウマが残っているのかと、翻訳しながらわたしは驚いた。彼自身は「憶い出集」に終戦時の天皇の玉音を聞く分隊長の敗戦に対する失望といらだちの様子を、描写する文章を寄稿している。斎藤氏は原町憲兵分隊に勤務した戦友会「原町憲友会」の会員。食事は隊員のを分け与えた、と書いているが、彼自身が分け与えた訳ではなく、食料不足に不満を持っていた隊員全般の印象を言い表した表現だろう。彼には捕虜にうんぬんの権限はない。捕虜は、あくまで見ただけである。

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