○海軍神風特攻隊で町中が沸く
 十九年十月二十五日。海軍神風特別攻撃隊敷島隊が、初の特攻作戦を敢行。中野磐雄一飛曹が隊長機に続く2番機として250キロ爆弾ごと米艦隊に突入した。全国紙の第一面に華々しい戦果とともに称揚され、年内ずっと続報に沸いた。ラジオでは十月二十八日に報道され、原町の原町座と朝日座の両映画館で、カミカゼ特攻隊の出撃を報道する「日本ニュース」フィルムを上映。異様な興奮を呼び起こした。
 ○再召集による郷土部隊と補助憲兵への増員
 十九年十一月上旬、佐川誠二、阿部喆哉隊員らが、補助憲兵として会津若松部隊から原町分隊へ転属。彼らは若松東部第二十五部隊から赴任してきた。この部隊は朝鮮半島、中国大陸、南方などの各方面に派遣された福島県人の部隊で、残存した兵が郷土防衛隊に編成された。
 若松東部第二十五部隊に昭和二十年に再召集された兵隊たちは、多くが郷土防衛のための中年郷土部隊だ。鈴木敏夫らは福島憲兵隊に数十人の戦友とともに補充され、そこから原町分隊に転じてきた。
 佐川誠二の回想。
 「営内居住者の長として兵隊から毎日食事の事で責められてつらかった」
 「原町憲兵分隊時代に特筆すべき事柄は、補助憲兵の食事の足りない事でしょう。分隊前の半沢そば屋のかけ丼に一杯の食事で、働き盛りの兵隊が満足する筈はありません。炊事場の設備工事も大変でした。鍋釜から茶碗皿まで、米の特別配給による増量や、言うに言われぬ苦労がありました。タバコは朝日や敷島ばかりの隣組配給でした。糧秣や嗜好品などは何で軍隊の支給がなかったのでしょうかね」
 阿部喆哉の回想。
 我々は佐川軍曹に引率されて郡山、岩沼を経由して原町に到着した。その日は北風が吹いて駅前の石の敷き詰められた広場は砂埃が舞い上がっていて、何か寂しい印象がありました。我々は分隊に入ると二階の南側の第二講堂と呼ばれている所に起居していたのである。
 憲兵分隊には給食の設備がないので、食事の世話は分隊の向かい側の元うどん屋のおばさんが作ってくれたのだが、我々部隊から行った者にはあまりにも少量のご飯には驚いた。よくも我慢が出来たものだと思った。入浴は最初から半沢さんの隣の銭湯を利用していたが、青田材木店の学童疎開用の風呂を子どもたちの後に使わせて頂いた。製材所から出る廃材で沸かす湯の量が多く、夕方の最高の楽しみであった。
 分隊の隣は細い路地をはさんで渡辺菓子屋があり、その頃は菓子等なく菓子屋の面影だけが残っていた。以前は大きな店らしく、二階はいくつか部屋があり、国鉄の女車掌さんが間借りしており、窓を開けると間近に顔を合わせる状態なので親しくなると非番の時など兵隊のほころびや靴下繕い等をしてくれた。
 小澤芳明・当時相馬農学校3年16歳の回想。
 昭和十九年十一月、原町の飛行場にいた一式戦闘機「隼」が、訓練中、南から北に向けて離陸しようとした時、滑走距離が短かったためか、エンジン不調のためか、高度がとれずに赤芝山に車輪をぶつけてバランスを崩して不時着した。
 「昭和十九年十二月、陸軍飛行場で、隼の尾輪を改修している時に空襲があった」と、慰霊顕彰会の座談会を引用する形で「大甕従軍記」に記事が載っている。
 11月29日には空襲警報が鳴っている。当時15歳だった八牧美喜子さんの日記に記述されている。
 十一月二十九日 いよいよ寝ようかなと思って居たら、どうも半鐘の音らしいのが遠くできこえる。おやと思って母さんをおこして聞いてもらったらやっぱり半鐘の音。心配して母さんが表へ出て行ったら警戒警報との事。すぐに久木元さんをおこして言ったらぱっと飛び起きた。でも遠くでひくくなるだけ。帰へろうかななんて久木元さん又フトンの仲にもぐり込んでしまふ。私達は気がもめてモンペをはいたり防空頭巾を出したりして居たら、今度はいよいよ警察署のサイレンがなり出す。そしたら久木元さん又ぱっととび起きて川口さんをおこして二人で一台の自転車へのって行く。月夜だった。門に皆でたってお見送りしたっけ。
 12月には、いわきにB29が初めて投弾している。

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