○新地町に連絡用戦闘機墜落
 終戦直後、相馬の海岸で連絡用の戦闘機が墜落。焼却を依頼されて処分した。小林修造が担当した。戦後の憲兵隊扱いの航空機事故である。
 小林修造の回想。昭和廿年八月十七日か十八日のこと。原町分隊に一軍人から駒ヶ峯海岸に不時着したので飛行機を処分して頂きたいとの電話がありました。その飛行機の処分を私が命じられました。その方法として一斗缶(ガソリンか石油)を持参して焼却するようにとの事でした。
 現地に到着すると、一人の将校がいて、重大な命令を伝達すべく東京より北海道札幌へ行く途中の出来事だと申しておりました。急ぐので汽車で行くから飛行機を処分して欲しいとのことでした。私一人ではどうしようもなりません。ちょうど近くに護岸工事の現場があり、大勢の作業員がおりました。現場監督に交渉した結果、快く引き受けてくれ、無事処分して帰隊しました。
 阿部喆哉の回想。(終戦の)翌日、分隊の中庭に炊事場が出来て佐々木戦友と二三名が炊事当番で、米その他の食料品も飛行場から運び込まれたので、食事の量も驚くほど豊富で、兵隊たちも久しぶりに満足する事が出来たようである。又ドラム缶の野天風呂を設備されて利用した。古い兵隊たちは昔の戦場を思い出したといって笑っていたのである。
 無条件降伏から幾日か過ぎて後、分隊の兵隊全員が一階級進級させられ、また補助憲兵は憲兵に転科させられた。しかし我々は武装解除になり、軍隊なんて無くなるのだから関係ない事であった。ただ妻帯者は一日も早く家に帰してもらえることを考えていたらしい。
 別段何をする事もない兵隊は毎日漠然と一日の過ぎるのを待っているだけであった。佐々木さんだけがアルコールを朝から飲んでご機嫌で炊事をしている姿が目立った。
 ある日突然、第二十四部隊から今までの在隊者の倍位の兵隊が派遣されて来た。戦争も終った今、何の目的で増員されたのかは知る由もなかった。
 ○終戦後の補助憲兵大量増員
 増員は、終戦の混乱に対応するための治安維持対策であった。以下は阿部班長の回想。
 八月二十三日、補助憲兵として加藤軍曹以下十三名が増強増員、配属着任した。
 原町分隊からは、東部憲兵隊本部(東京)に応援のため憲兵下士官以下補助憲兵が派遣された。九月下旬、原町に帰隊した。
 郷土部隊からは、被服と食糧が提供されて運営した。
 九月二十日、武装解除、復員の命令下る。警察電話を警察に返却。
 軍馬は三頭配属されていたが、中村地方事務所に取引方を要請し、払い下げ処分するまで待てとの指示であったが、一頭は渡辺馬丁が愛情こめて飼育した関係上、その旨を地方事務所に申請して払い下げ、その他の二頭は地方に引き取られた。飼育のために残留していた渡辺馬丁と村田馬丁を解雇した。個人から貸与されていたオートバイなどもガソリンを添えて返却。トラックも原町飛行場に返却。命令されたものについては、それぞれ県などに返却した。
 厩舎前の桜の木が二度咲きして花びらがあちこちに残っていた。春に花が咲いたのだが、虫がついて葉が食われ、夏が過ぎて再び芽が出て花が咲き、葉が出た。
 日本の戦後復興はまだだいぶ先だったが、自然は人間の思いをはるかに超えて、泰然として動き、国敗れて山河ありの観であったろう。
 ○東京訪問の治安出張
 東京大森憲兵分隊応援状況。斎藤雄一回想。
 終戦となり米軍の上陸進駐によっての第一任務は治安維持でありました。その時東北地方から約二百名、各分隊から二三名との話を聞きました。
 昭和二十年八月二十八日頃、私達は応援出動命令を受け、大森に着く。
 翌朝、大森分隊の案内で現地検問所に行く。検問所は東京湾近く多摩川河口にある太子橋の上に設けられた検問所で、宿舎は橋の下であった。
 勤務は一日四回一時間交代の二人組立哨である。米兵との対峙の勤務で生きた心地はまったくなかった。服装は拳銃、軍刀の警察勤務に服する軍装である。米軍からは拳銃・軍刀は吊るなと言われましたが、最後まで軍装であった。
 治安維持は一番であったが、その頃の東京の部隊は解体同然で、兵隊は家に帰る脱走兵が多く、軍需物資を積んで脱走するものがありましたので、それを取押さえるのが一番の任務のようになりました。米軍は紳士的でした。
 このような毎日の任務が続き、やがて応援解除となり、帰途同行者と憲兵司令部に行き、夜おそく帰隊。翌朝報告致しました。九月四日頃と思います。
 ○館山方面警備応援
 井上保隊員回想。米軍上陸の警備派遣。
 九月に入りましてアメリカ海兵隊が千葉県館山市に上陸のため警備任務に警察官と同行しましたが、分隊からは下士官と十数名位だったと思います。警備に行った日は九月五日頃だったと思います。
 翌日、午後海兵隊上陸のため警察官と戦友たちが海岸線の各所に立哨され、私は連絡兵として残りました。連絡に行く途中、直線道路の前方百メートル位の所に上陸した海兵隊が数十いる姿が見えましたので、恐る恐る近寄ると、私の周りに数十人が銃口を向けて話しかけられたが、何を言っているのか分かりません。服装は丸裸でパンツ一丁でした。
 初めて見た米人は驚きました。持っておりました武器は取り上げられてしまいました。郵便局では女子職員は机の下に隠れるというような大変な騒ぎでした。
 夜間になって、海兵隊は全員軍艦に戻り、電燈の光や音楽で賑やかでした。海岸線には米軍の警備隊が立哨しているので、犬が近寄っても発砲します。
 警備任務が終って原町に帰った時には、残っておられた戦友はおりませんでした。
 ○進駐軍にすべて引き渡す
 十月一日、阿部班長は東北軍管区司令部付に転属した。
 十月初旬、進駐軍が原町飛行隊に進駐し駐屯した。将校以下数名が分隊に来たので、これに分隊長と班長は斎藤校長に作製してもらった英文目録を提出し、立会いのうえ説明し、兵器、弾薬、建物すべての備品を進駐軍に引渡しを完了した。町内の酒店の日本酒を土産に贈った。
 阿部班長の回想。
 「進駐軍が来た時に、芸者ガールはどこにいるか、と尋ねられたので、原町は田舎なのでいない。都会にはいる、と応えたら、都会とはどこかと問うので、福島市、郡山市、平市である、と返事した」「案ずるよりは生むが易しというが、何ら支障なく順調に推移し、残務整理の任務を果たして岡分隊長と通訳の斎藤先生とともに、進駐軍の退出した後、安堵の胸をなでおろした」
 十二月一日、阿部新一郎班長は故郷に復員し、東北電力営業所に勤務した。
 ○捕虜虐待の問題で尋問を受ける
 二十一年三月十日、阿部班長は福島市の米軍CICに出頭を命じられて、会社に迷惑をかけるかも知れないので辞表を提出して出頭した。
 阿部班長の手記。
 福島市県庁前通りに駐屯の米軍に呼び出され、英軍搭乗員の取り扱いについて、日系二世の米軍下士官の通訳で米軍将校(階級不明)の取調べを受けたことがある。原町憲兵分隊においては手厚く保護し、危害を加えず、捕虜取り扱いに関する国際法に基づいて処置したのであるが、しかし厳しい取調べであった。
 特に取調官は私に対して搭乗員に対して暴行を加えたのではないかと、巾約四センチ位、長さ約三十センチ位、厚さ一センチ位のバンドのような皮革で机を叩きながら執拗に迫られた。原町の憲兵は搭乗員に対し暴行や脅しなどの行動はしなかった。空襲により興奮している一般住民から身体の安全を守り、更に食事を与えて保護した、いわゆる命の恩人である。搭乗員(終戦後釈放)に面接すればわかるから会わせてくれと私から逆に迫ったのである。取調官はそれ以上責めなかった。
 その他管内に捕虜収容所が常磐炭鉱と好間炭鉱にあったので、捕虜の管理状態、特に食事、衛生について尋ねられたが、私は直接関与していないが、憲兵として収容所長に対して適性なる管理と違反の無いよう申し入れてある事を答えた。又色々尋ねられたが問いに対してそれぞれ説明返答したので指摘されるところはなかった。
 取調べが終了して帰宅を許されたその時、取調官が「こちらの調査により又事情を聞く必要がある時は再び呼び出しをするかも知れぬから住所変更する時は届け出ること」と指示された。
 私(阿部元原町分隊班長)は、本日は証人として出頭したので、旅費日当を求めた。間もなくタイプライターで証明書を打って貰い、それを持参して県庁に行き、本日の取調べの件を説明し、現金を受領して帰宅したのであった。(本人手記)

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