高野寅雄隊員は、七月、平分隊に志願して転属して行った。連日警務と巡視だった。好間炭鉱の捕虜収容所の巡察である。
 七月中旬、双葉郡請戸村の海岸に漁船が出漁中に米海軍航空母艦よりのグラマン戦闘機からの攻撃を受け、78名の犠牲者が出る事件発生。浪江警察署よりの連絡があり平分遣隊から濁沼軍曹と吉田伍長の二名が出動。検証した。
 ○原町にも配備されていた最期の特攻機
 本土決戦のための特攻を意味する「と号作戦」として、黒磯から岩手県後藤野、栃木県金丸原のほか陸軍神鷲特別攻撃隊204部隊は、七月二十四日に原町飛行場にも配属された。太平洋沿岸に接近する米軍艦隊に対して「しゃち作戦」と称する自爆攻撃用に陸軍特別攻撃機が準備された。
 阿部喆哉の回想。「七月頃になると、原町の飛行場から飛び立つ飛行機は見られなくなった。たまたま隊内で仕事の無い時、巡察の同行を命じられ飛行場のはずれに行くと、二機ほど松林の下に特攻機があったので近寄ると、若い隊員が気安く言葉をかけてくれた事があった。(特操二期の搭乗する特別攻撃機陸軍99式軽爆撃機)
 彼らの話によると、原町から飛び立つのはこれで最後になるだろうと言って、機内を見せて説明してくれた。この飛行機は飛ぶに必要な計器だけで、重量を軽くし爆薬を多く積む事、燃料は敵艦に突入するまでに必要なだけ。目標物が発見できない場合は帰ることが出来ず、結局海に落ちるしかない事であった。明日関西の飛行場に行き、敵艦に突入する命令を待つのだと言っていた。

 ○原町空襲で被害甚大
 八月九日、機関区はじめ町内各所が空襲され、被害を受けた。
 阿部喆哉の回想。
 茨城県日立市沿岸が艦砲射撃されたので、原町も飛行場があるのでこの次はあの辺りであろうと、何処からか流言があり、駅周辺からは沿岸の人たちが避難して夜間はは無人の状態になり警備に出されたこともある。九日は朝から空襲警報のサイレンが鳴り、グラマンの襲撃があった。空襲警報が出ると、補助憲兵が道路の向かい側にある農業関係の建物の屋上に監視に立ったのである。その時の立哨者は確か小野上等兵で、彼は戦地帰りの強気の人で、あれ程低空で飛来したのだから実弾があったら打ち落とせたのにと非常に悔しがった。
 井上保隊員の回想。「原町駅には爆弾が投下され、国鉄の線路がちぎれて町内の道路なかごろにまで散らばって落ちていました。原町憲兵分隊も機銃掃射を受けました。私は分隊の床板に伏せておりましたので逃れました」
 十日、憲兵分隊庁舎も米軍艦載機の機銃掃射を受けた。
 阿部喆哉の回想。十日にも警報が鳴り、三浦伍長が「阿部、伏せろ」と怒鳴ってくれたので、夢中で石敷きの広場に身体を投げ出し耳を両手で塞ぎ、いつ銃弾が当るかと生きた心地もなかった。二機で波状攻撃されるのだから時間にして五分位であったか、非常に長く感じた。ただただ死にたくない、の一念であった。
 阿部班長の回想。夕方、雷雨があって、町内を巡視に行くと、駅は攻撃の目標とされたらしく、構内の鉄道レールが吹き飛ばされ、重いレールは二本、跨線橋の屋根の上に飴のように曲がってぶら下がって、空爆の凄まじさを物語っていた。電話局を訪問すると、女子が二人いて机のうえにたたみを一枚置いただけで電話交換の業務を続けていた。あまりの勇敢さに感嘆し、空襲の危険な場合には防空壕に避難するようにと指導した。
 阿部班長夫人慧子の回想。 
 空襲の日
 空襲警報が日に増して頻繁になると、町内の婦女子は疎開する人が多くなりました。私は箪笥や主なるものは生家に送り、体一つの身軽で残る事にして、あまり深刻に考えませんでした。
 それでもその日は敵機の爆音が聞こえ始めると手早く身支度をし、防空壕に入りました。人の顔も見えない暗い中で
分隊の兵隊さんと肩を寄せ合って外の様子に全神経が集中するのです。何期も何機も低空飛行して近くで機銃掃射のバリバリとしばらく音が聞こえたと思えば、今度はいきなり凄まじい音と地響きがして爆弾の落ちる音とともに壕の中の土が崩れて、このまま生き埋めになるかと体の震えが止まらず、命の執念なのか神様に祈り続けた恐怖の長い時間でした。
 日暮れ近くになり、静寂さが戻りました。
 地上に出てみると西のほうの一角に不気味に赤い炎が黒煙とともに空高く燃え上がってういるのです。人々の話では、原町紡織工場が空襲により火災発生して燃えているのだそうです。とうとうこの地も戦火に巻き込まれたのかと、しばらく呆然となりながら涙が出てなりませんでした。
「隣家の恩田さん宅では機銃掃射を受けて箪笥が上から下まで貫通されました。奥さんはご主人が戦死されて間もないので、生きる自信を無くしたのか、自分も死にたい、と空襲中、壕にも入らず長時間一人で家の中にいたそうです。非常に危険なことだと思いましたが、その当時の感覚ではよくあることだと思います」
 阿部班長の手記でも、「(空襲の銃撃で)着物が穴だらけになったという例が数件あった。原町飛行場に勤務する庁舎の隣家でも箪笥の被害があったそうです」とある。恩田という人物は飛行場に勤務していた戦死者の未亡人だったということだ。
 ○空襲直後の原町飛行隊の動揺
 渡辺幸太郎の回想。 原町周辺も空爆を受け、原町紡織工場も火災に遭う事態が発生し、夜間火災現場の取り締まりに行かされ、形あるものが無くなる淋しさを感じました。
 「原町飛行隊より連絡が入り、飛行場の周辺を歩数で測って歩く怪しい者を捕まえたので身柄を引き渡すからくるように、との事で、私が身柄を引き取り留置しました。班長殿が取調べをして、その拘留中に、私と武者兵長その他十名位で家宅捜索に行きましたが、結果疑わしいものは何も出ないで空振りに終った。」
 「その日の夕方、再度飛行隊より連絡が入り、飛行隊で使用している二号無線機に怪しい電波が入るので、石神地区の朝鮮人部落を今夜張り込みをして欲しい旨の話であった。私と片山君が現地に向かいました。周囲は真っ暗で藪蚊に攻められ散々な目に遭ったものです。朝、すこし明るくなった頃、驚いたのは、足を一歩踏み間違えたら断崖から転落しそうな場所でした。成果は何もなく、飛行隊にただ踊らされた監事で帰隊しましたら、双葉郡の山中で捉えられた米兵を、分隊から軍法会議に送るため引取りに出かけた直後のことでした。そのため私達は米兵の顔をぜんぜん見なかったので、何だかつまらない気分になったものです。

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