昭和二十年
 ○一式戦闘機「隼」の空中接触事故
 二十年一月、一式戦闘機二機が空中衝突事故を起した。
 小澤芳明の回想。(原町市史基礎資料)
 一月、掩体壕作りの日課を終えて相農に帰る途中、飛行機の事故を目撃した。原町の上空で一式戦闘機「隼」2機が空中戦の練習中、あまり接近しすぎて、一機が僚機の垂直尾翼に接触して破損させた。破損された機は、電力会社の裏の水田に墜落し、搭乗員は落下傘で高平小学校前の桑畑に無事着地した。接触した方の機は、プロペラに少し損傷があったが、無事飛行場に戻った。
 後で墜落現場に行って見たところ、水田には水がなかったのに、主翼からエンジンの前は完全に土に埋もれていた。
 この事故は、憲兵隊員も目撃している。小林修造が出張から原町駅に帰ってきた時の回想。
 中村町の徴兵検査場取締りの任務を終了して帰隊の途中、原町駅ホームに降りたその時、北方の空に二機の飛行機が異常に接近するのを見ました。その瞬間空中衝突し、落下傘がぱっと開いて降りてゆくのを見ました。
 分隊に帰りましたら、その飛行機は町内に墜落したとのことでした。現場取締りに行くように命じられ、現場に行きました。エンジン部分と胴体は西の川原(現在は西町)に。翼の部分は伊出の内(現在は小川町)の田の中に落ちていました。
しばらくして一人の将校が飛行場の自動車に乗せられて着きました。墜落した飛行機の乗員で教官だったそうです。衝突した他の一機は無事で、乗員は訓練生です。
 八牧美喜子(旧姓加藤)はこの事故を日記に記録している。
 一月二十日。今日、戦闘演習中の隼が空中接触する。はじめてあった事故。落下傘で降りてゆく人の影、青い空にはっきり見える。折角良く開いた落下傘がだだんだん海の方に流されてゆく。あんなにはっきり見上げた落下傘も飛行機も見えず、真っ青な雲が流れていた。その速度が憎かった。目のまえで死ぬのを見なければならない気持ち、もう忘れられない」(「秋燕日記」より)
 のちに改めて出版された「いのち」p138には、同日の記述に「しかも隼には権藤さん、前田さんものるはず。せっかく良く開いた落下サンがだんだん海の方に流されて行く」と、原文のまま収録されている。この時のパイロットが柳友次であり、幸運にもパラシュートで命拾いしている。
 一週間後に、再び航空事故が起きた。
 少年飛行学校十三期鉾田分校襲撃班合祀者記録には「中沢重蔵 原町飛行場 離陸時エンジン故障 殉職」とある。
 中沢重敏 高知県香美郡 一月二十八日 原町飛行場。双襲の飛行訓練中、離陸して間もなくエンジンが故障し、不時着して殉職した。(「嗚呼原町陸軍飛行場」p237)
 ○東北初の原町空襲で4人の犠牲者
 二十年二月十六日、初めて原町空襲される。軍指定工場の原町紡織工場が低空飛行してきた米軍機から、突然攻撃され4名の犠牲者を出した。
 二月下旬。仙台憲兵隊本部の命令により岡分隊長が統率官として本部管轄分隊、分遣隊、分駐隊の広範囲にわたり、原町を中心に常磐炭鉱にいたる地域で防諜演習を実施した。
 三月一日、平憲兵分遣隊が新設され、濁沼曹長が初代所長に就任。吉田軍曹、片寄伍長が平裁判所近くの蚕業試験場跡地の建築物に初めて分駐所を設置。
 三月九日、米軍B29による空爆により紺屋町、材木町が強風下瞬時にして大火災を発生。平分駐所は警戒取締りに出動した。
 片寄義一の回想。
 十九年十一月十日原町分隊配属。三月一日、平分遣隊設置で派遣された。三月十日夜、平市内にB29の空襲があり、初めての事でもあり私達若い隊員は勇を鼓して市内を巡察し状況把握に夜を徹して頑張ったものです。
 三月九日から十日にかけて東京に大空襲。下町は壊滅状態で、原町分隊からも警備要員として数名派遣される。
 ○東京大空襲の焼け跡で応援勤務
 高野寅雄の回想。
 昭和二十年一月十日、若松から原町分隊に配属になりました。そして三月九日東京大空襲で一面焼け野原となり、被災地の治安維持と取締りの応援のため十日原町駅より出発し、その時平市も空襲を受けて煙が上がっているのを眺めてびっくりして東京へ向った。
 北千住で列車は止まり折り返し運転のため下車し、一面焼け野原でまた驚き、歩いて日暮里駅まで歩き、電車に乗って飯田橋駅で下車し東京九段下の憲兵司令部に各地区隊より終結した。宮城お堀の向かい宮城内も濛濛と煙が上がって燃えており、高台から東の方面を見れば一面見渡す限りの焼け野原でした。
 憲兵司令部より訓示があり、原町分隊は本所分隊に配属となり、夕方深川分隊に一泊して本所分隊に行った。分隊が全焼したので錦糸町駅前の江東劇場が鉄筋コンクリート造りのため焼け残ったので分隊に使用したのである。
 焼け跡の巡察と駅の取締りに勤務した。また菊川橋の川よりの死体引き揚げ現場を市民に見せぬため交通遮断を警察で行ったが、市民は指示に従わないので憲兵分隊に頼むとの連絡で、八木原伍長と私が勤務に当りました。
 菊川橋に行って川の中に市民の死体がぎっしりで驚きました。警察と消防団の方で川より木材を組んでいかだにし、川の中に鳶口で引き寄せて、井戸野のつるべ車のようなもので吊り上げ、橋の上で個人個人に住所氏名を記した札を立て、公園は墓になった。
 交通遮断任務の時、「妻と子供がこの橋から入ってなくなっていますから、憲兵さん今日も見せてください」とお願いされた。
 三日ほど来て見つかりました、と燃えてゴムのないタイヤだけのリヤカーに乗せて「お世話になりました」と言って帰る時に、感涙したのを忘れられません。その人に空襲で川に入って生き残った体験を聞きました。
 風速三十メートルの強風で円形になった焼夷弾を投下され、燃え広がる火に追われて逃げ場がなく、集まったのが菊川橋で、早く来た人ほど川の深くに入って亡くなった。その人は橋の下の石垣につかまり、火の風が吹いてくるので川の中に潜り又潜りの繰り返しで生き残った、と話しておりました。眉毛も睫毛も無くなって気の毒な顔と姿でした。
 両国、錦糸町、亀戸、平井、新小岩と千葉線が開通したので、停車場取締り勤務は毎日当たり、付近は見渡す限り焼け野原でした。
 深川方面は大きな倉庫が、食料その他の中身ごと一週間以上も真っ赤になって燃え上がっていました。本所憲兵分隊に二十八日勤務し、原町分隊に帰ったのは、四月中旬頃でした。
 片寄義一の回想。
 三月十日の陸軍記念日以後、空襲はなかったものの、高高度を飛行するB29からビラを撒き始めた。表は十円紙幣そっくりで、裏側に「戦争はやめませう。戦争がなければこの拾円で米がどれくらい買えるか」などと印刷されていた。原町で拾った住民からそうしたチラシが届けられた。
 三月二十八日、濁沼曹長は会津若松憲兵分隊班長に転勤した。

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