敗戦 八月十五日の玉音放送
終戦。続き。
空襲後は全く警戒警報も無く、不気味な日が続いた。
ある朝、朝礼の後、分隊長殿から「本日正午重大放送があるから事務室に集合せよ」との命令があった。正午に命令通り事務室に集合すると、ラジオから何か放送されいるが、その雑音たるや物凄く聞き取るのに困難であった。近くにいる人によるとこれから玉音放送、天皇の重大なる放送である事が理解できた。しかし話の内容は不明であったが、分隊長だけは意味が分かったらしく、軍刀を握り締めて涙を流しているので、すこしずつ判断できたのでした。
日本は無条件降伏したのだが、我々は涙の出るほど悔しいとは思わなかった。ただただ兵隊はこれから一体どうなるのかと、その程度であった。
誰かが「こうなったら上官も兵隊もなく皆平等である」と言ったので、自然と分隊内の雰囲気も変わってしまった。今までのあの厳しい命令も何となく遠慮しがちになってくると我々兵隊よりも上級者が哀れさを感じたものである。
ラジオで無条件降伏の放送があた後の飛行場の隊員たちは実に対応が速やかで、我先に帰ってしまったらしい。倉庫内には十分食糧やお目にかかることの出来ない缶詰などが収納されていた。さっそくその日の夕食どきには飛行隊用のアルコールで分隊の道場で大宴会となった。初めてアルコールを飲んだのだが、旨いとは思わなかった。
十五日、福島市へ呼び出されて阿部班長はオートバイで出頭。終戦の詔勅が放送された直後に原町に到着した。
阿部班長の回想。
終戦の日は、暑い夏日で、その前後は晴れた闇夜であった。(前夜の)午後十時過ぎ空襲警報発令。B29が原町上空を通過して秋田へ向かった。秋田市土崎油田が烈しく空襲された。空を見上げて飛んでゆくのを眺めていた。原町駅には憲兵を常時派遣し、町内に23名巡察させた程度である。そんな状況の中、福島憲兵隊本部から電話にて重要な命令を達するから直ぐ本部に出頭せよ」と大著命令があった。
福島市に行くには常磐線原町駅より乗車し東北本線岩沼駅に乗り換えなければならないが、空襲で列車不通なので、その旨報告したところ、オートバイで来い、との命令であった。民間人から「ガソリンの配給がないから憲兵隊で使用して下さい」との善意で借り上げ使用していたオートバイがあり、米国製のハーレーで、それで行くことにした。しかし簡単ではない。空襲中なのでライトは照らされない。闇夜である。阿武隈山脈の八木沢峠の七曲を越えなければならない。道路は凸凹の山道である。崖下は他のそこでる。いかなる方法で行けばよいか分からない。仕方なくライトはしっかり囲い、前下だけ見えるようにして、補助憲兵に細工を命じた。
彼らは一生懸命に工夫したが思うようにならず、十五日の午前三時半頃になった。すでに夜が明け始め、ライトなしで運転できると思い、軍装に身を整えてエンジンをかけようとしたが始動しない。ライトの細工にバッテリーを消耗したためで、整備工場に持参して充電。結局六時頃に出発。憲兵隊本部には午前九時頃到着した。「遅い」と小言を言われた。
「天皇陛下の命によりわが国はポツダム宣言を受諾する事になった。本日正午ラジオにより天皇陛下の玉音放送があるから聞くこと」と口頭で伝えられた。
戦争は負けた、これからの事は分からない、と隊長代理の曹長が行った。
休む暇なく引き返した。無我夢中でオートバイを飛ばしたが、原町手前の石神村で正午になった。早く早くと町内に入ったら、町民が私を注目していた。ラジオ放送を聴いたのだなと感じた。分隊に到着したのは午後零時半頃であった。隊員はすでに玉音放送を聞いた後であった。
「本当ですか」と聞かれたので「本当だ」と答えた。体から力が抜け放心状態になり、頭の中は空洞化し、うつろで何の考えもなく虚脱と喪失感に包まれた。昨夜からの疲労があり、空腹なので帰宅し食事し、ごろり横になった。
斎藤雄一の回想。
十五日の正午には何か重大な放送があるという話は流れていましたが、正午に近づくにつれ、二階の講堂に全員集合するようにとの達しがあり、整列が終わり分隊長より「ただ今から陛下より重大な放送があるので良く聞くように」との簡単なお話でありました。
勿論、その当時でしたから整列し陛下のお話が始まると直立不動となり、自然頭を垂れまして聞き入りました。録音放送は雑音があり、陛下のお言葉も途切れ途切れですたので分かりにくい所がありましたが、私として今も記憶に残っているお言葉は「耐え難きを耐え、偲び難きを偲び以て万世のために太平を開かむと欲す」だけであった。
終って一同ただ無言。そして呆然となり、放心状態となった。この放心状態は、隊員は何をする気もなく二週間位続いた。
分隊長はあの時軍刀を持って玉音放送をお聞きになっておられたように思います。陛下のお言葉であるので、長となる者の礼儀からか、正装であったと思います。
放送終って分隊長殿は特に興奮された記憶があります。軍刀に手を当て悔しさの余り、床を軍刀でつついたり、動作も乱れ、抜刀するのでは、と私は見入った。そのような分隊長の状態でした。
終戦時の処理
渡辺幸太郎の回想。富岡の飛行隊長の将校行李が紛失したので捜査して欲しいとの依頼を受け、飛行隊に行き、隊より状況を聴き、その後関係者に会い事情を聴いた結果、どうやら隊長の失念のように思われた。後日、その荷物が出てきたと聞いた。
十五日の暑い日、双葉郡の飛行場が空襲を受けた直後で、それの状況調査のため出向しました。村の駐在所に立ち寄った時、正午近くだったので天皇の放送がある事を知り拝聴したところ、何となく敗戦を知り、それから飛行場での状況調査を始め、ある将校に状況を聴き始めたところ、居合わせたほかの将校に「敗戦なのに今更調べる必要がないだろう」等といわれ、じぶんなりに困った思いをしながら帰隊した。
数日が過ぎ、この飛行隊に反乱が起き、関係者の取調べに忙しい思いをし、軍法会議に事件送致した事を思い出します。
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