○陸軍邀撃機「鐘馗」墜落事件
 十九年十月、陸軍二式単座単発戦闘機「鐘馗」が、原町飛行場に急遽着陸して来た。首都圏の防空迎撃基地から発進し、攻撃した直後に離脱したものの、位置を失って誤って指定された水戸の飛行場を見失い、原町まで飛来したものだった。給油して離陸後、エンジン事故で墜落。憲兵分隊も状況の検分のため出動した。
 原町市史・旧町村史の石神の項目に、目撃者の談話が掲載されている。
 鈴木敬氏の回想。
 その日は日曜日であった。寝転んでいると、バタバタという奇妙なエンジン音がする。急いで飛び起きて外に出てみると、飛行機が逆さまに飛んでいた。驚いたことにそのまま押釜の一本杉の根元に突っ込み墜落したのである。突然の静寂が異様であったことを覚えている。
 墜落した飛行機に恐る恐る近づくと、風防ガラス越しにパイロットの顔が見えた。飛行めがねが真っ赤に染まり、血だらけになってピクリとも動かない。
 現場にはじめ誰もいなかったが、近くには民家の麦畑で作業している18歳くらいの若い娘さんがいたのである。私が何もできないで立ちすくんでいると、驚いたことにすぐにやってきて、てきぱきと逆さまに落ちた飛行機の風防を開けて、パイロットのシートベルトをはずした。地面に落ちたパイロットの顔は潰れて真っ赤に染まり、飛行めがねをかけているのが異様であったことをよく覚えている。ほんとうに怖かった。
 その娘さんは「雨戸を外してこい」と指示を出した。雨戸にパイロットを乗せて運ぼうとしたのである。そのとき上体を起したので、生きていると分かった。
 墜落したのは「鐘馗」と名づけられた飛行機であった。これは敵機を一撃待避する戦闘機で、高速接近するために大きなエンジンを積んでいたが、尾翼が小さく運動性能が悪い。彼は当地の婦人会から贈られたサツマイモ一俵分胴体に収納して、自分の隊に戻るところであったらしい。積んだ荷物が重かったためか、バランスを崩したのであろうということであった。(当時双葉中学2年生)
 当時父親の鈴木忠徳校長が石神第二国民学校に勤務していた鈴木敬少年が出会った飛行機事故の目撃談である。このインタビューは、採録者が県考古学会長の鈴木氏に気遣ってそのまま市史のコラムとして掲載してあるものの、墜落の原因は過重な積荷によるというより、燃料のガソリンのオクタン価の違いによるエンジン失速であることが関係者の間では常識として判明している。
 市史本文の脚注に「昭和19年10月」というキャプション付で中野目利次氏提供の写真が掲示されている。編纂担当者は、なぜ素人の事故理由の伝聞を調査もせずに史実として掲載し、写真提供者に確認しなかったのだろうか。同氏は、当時の飛行場の記録掛として勤務し、この事故にも立ち会っている。写真は彼自身が撮影したものだ。
 「あれはガソリンに問題があったんですよ。私は原町飛行場に勤めておりまして、記録掛をしていましたから、最初に現場に行った時に、降りてきたパイロットは「此処は何処でありますか」と聞いた。すると「何をとぼけた事を言っておるのか」と、一緒にかけつけた飛行隊員がいきなり鉄拳を加えた。
 首都防衛のために発進した戦闘機が降りるために水戸に専用の指定滑走路があるのですが、間違えて原町まで飛んできてしまったようでした。燃料を補給して再び発進しようとしたが、航空用ガソリンに問題があった。原町飛行場の航空機燃料は通常のエンジン用のオクタン価87を使用していたのですが、二式戦闘機のエンジンは強力な推進力を出すために特別なオクタン価92のガソリンですから、合わないかも知れない。しかし、パイロットはどうしても帰隊したいとあせっていたので、そのまま給油して飛び立った。バタバタという音だったのは、燃料がマフラーを出た後で点火する完全なバック・ファイヤー状態です。点火の状態が悪い時に速度を出すと失速状態になる」と中野目さんは明快に指摘する。
 一式戦闘機「隼」は飛行66戦隊の30機が原町飛行場に所属していたが、二式戦闘機はない。この機種は高高度から帝都に侵入して日本の中枢を壊滅する戦略爆撃機B29を阻止するため首都防衛用に配備された迎撃戦闘機で、当時は邀撃機といった。急角度で発進し、短時間で高高度まに達し、一撃離脱する戦法に特化しているため、空中戦の格闘技を必要としない。重量が重く特にエンジンが巨大で高出力。俗にいうずんぐりむっくり型の不安定な体型である。首都圏の防衛飛行場から発進し、首都周辺に設けられた着陸用の滑走路としてバックアップに水戸飛行場が指定されてあった。
 二式戦闘機は、短距離走者のごとく筋肉隆々たる短躯の肉体に巨大なエンジンを積んでいる割には、速度アップのためと接近射撃時の命中率を高めるために尾翼を敢えて小さくして操縦の安定性を攻撃力の犠牲にした。短時間で緊急発進し高高度に達するために発進時の仰角が大きいので出力の大きさのためすべてを犠牲にした設計で操縦が不安定。優美な姿で操縦性にすぐれた空中戦の格闘技にすぐれて小回りの利く海軍のゼロ戦や陸軍の隼などの名機と呼ばれた戦闘機に比較すると、まったく正反対の設計思想で作られた迎撃専門の局地戦闘機である。この危険な飛行機について、水戸飛行場などでは「鐘馗には、若いもんは乗せるな」と言っていたほどだった。
 案の定、原町航空隊の隼という通常航空機用のガソリンは、二式戦闘機の馬力の違うエンジンでは、きわめて点火調節が困難だった。あの事故はそのためのバックファイヤーによる失速状態での墜落だったのである。
 原町区馬場 中野目利次の回想
 軍属として原町飛行場に勤めました。
 大正十五年生まれ、八十一歳。
 私は1926年(大正15)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一歳になります。
 石神第二高等尋常小学校(のちの国民学校・現在の小学校)を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業高校)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあちこちで働きました。私は草鞋を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よくゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
 家の近くに飛行場ができて
 昭和十四年四月、私の家のすぐそばに雲雀ヶ原飛行場ができ、翌年「熊谷飛行学校原町分教場」として開場します。(飛行場の名称は次のように変更。「三重明野飛行学校教育科第一中隊飛行場」「茨城水戸飛行学校第三中隊飛行場」「茨城鉾田飛行学校第二中隊飛行場」)。また飛行場建設のため、突然、軍の厳しい命令で移転させられた農家が六九戸もありました。
 記録係として終戦まで働く
 進学できず友人の群れからはぐれたような私でしたが、家族のすすめでこの原町飛行場に勤めるようになったのです。軍属(軍人ではなく軍に所属する文官や文官待遇者)として勤め、同時に十四、五人が採用されました。上の人からの指示で、整備班の事務室で記録係をやることになったのですが、小学校卒の十二、三歳でしたから、何をやるのか、何が何だかさっぱりわからず、出入りする人は大尉や准士官の偉い人ばかりで、「言われたことをやれ」と命令され、本当に閉口しました。できてもできなくても、とにかく訓練飛行機の識別マークを見て、どういう飛行機か、教官や学生の誰が乗り、いつ地上滑走し、飛行時間などの飛行演習の記録を一生懸命やりました。一機ごとの飛行機の履歴簿に、走行距離も部品の好感などもしっかり記録しました。
 記録は毎月整理し搭乗日誌に清書して、分校長に提出し認印をもらい、本校の部隊長に送ります。でも、戦況も悪くなり、特別攻撃隊に行くようになると、記録も二義的になりました。とにかく私は、昭和十五年六月から、終戦の昭和二十年八月十五日の後、残務整理で十月頃までの五年間、原町飛行場に勤めたことになります。
 飛行場には全国からの学生が五十人以上いました。私のいたところは第二格納庫と第三格納庫の間の飛行班という部屋で、今は亡くなりましたが気象班の青田信一さんと机を並べていました。
 学鷲(大学生)から勉強を教わる
 一番覚えているのは、上官から冗談に「とうへんぼく」とか「えへらえへら」といわれたことです。小学校卒だけで何も分からず、その「とうへんぼく」が「まぬけ」だという意味だということも、初めは知りませんでした。
 私は自分が小学校卒だけで惨めな学歴と自覚し、学鷲(がくしゅう)と呼ばれていた大学生の訓練兵から勉強を教えてもらいました。「教程」という教科書を使い、数学や国語や歴史を、毎日一時間ぐらい教えてもらったりしました。

 一本杉に衝突した飛行機のこと
 昭和十九年十月のことです。原町飛行場に、名古屋だか日立かどこからか、ひとり乗りの飛行機が迷って飛んできて着陸しました。パイロットは降りてきて「ここはどこですか」と聞きますが、演習指揮官から「何を言ってるんだ!」と激しく怒られ、殴られました。でも原隊に戻るために飛び立たなくてはいけない。ところがその飛行機は新型機で、使用燃料はオクタン価九二という種類で原町飛行場にはオクタン価八七という種類しかあえいません。そこで整備班長の田辺武雄大尉が自ら、ノズルの調整をしてやりました。
 でも原隊に戻ろうと飛び立ちますが、筒外爆発を起こし旋回し、押釜の杉本さんの屋敷の裏にあった「一本杉」に激突死大破します。パイロットは亡くなったと思います。私は記録係で、その事故直後の写真を持っていましたが、野馬追の里博物館に寄贈しました。
 杉本さんの家も大きく破損しますが、家には女の赤ちゃんがいちこの中に入っていましたが、奇跡的に無事でした。

 特別幹部候補生を勧められるが
 私は五年間も軍の飛行場にいて、兵隊検査で甲種合格していましたが、兵隊にはならないで終わりました。でも一時、特幹(とっかん)と呼ばれていた特別幹部候補生にならないかと勧められましたが、父が四二歳で召集されてフィリピンに出征し、家には祖父と母と兄弟だけでしたので、私は応募しませんでした。兵隊にならなくて良かったと思います。
 激しかった八月九・十日の空襲
 原町は終戦間際の昭和二十年八月九日と十日、ひどい米軍の空襲がありました。
 近くの原町紡織工場も飛行場もずたずたに攻撃されました。飛行機は掩体壕にかくれたりしました。
 飛行機は掩体壕にかくしたりしました。松の木に監視隊を作っていましたが、敵機が空襲してきて逃げ出した人めがけて機銃掃射で激しく狙ってきます。
 私も竹やぶに逃げますが、これが本当に恐ろしかった。竹薮は安全なようですが、とんでもない。機銃掃射の弾が竹に当たってはね返り、ぴゅうぴゅうと音を立て、どこに弾がいくか分からないのです。
 十日の午後、雷雨になり、敵機は海のほうに飛び去り、空襲は終わります。
 終戦の頃の飛行場には、寄せ集めの部品の不完全な飛行機ばかりが三十機ぐらい残っていました。
 戦後になって進駐軍がやって来た時、意にそうように飛行機を並べておきましたが、その粗末な飛行機に米兵は呆れ返っていました。
 戦争は良くない。こんなひどくて悲しい思いは、二度とさせたくないと思っています。(「九条はらまち」会報)

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