昭和十八年
十八年四月。鈴木曹長は石巻に転任した。替わって阿部新一郎班長が赴任してきた。
「鈴木班長と交代で阿部班長が赴任してこられ、共同炊事で青田栄様(当時警防団長)宅に班長と共に下宿いたしました。当時一ヶ月金七円だったと思います。下宿で晩酌付きとは今思えばありがたさに尽きます」と吉田義夫の回想。
十八年四月七日、原町近辺四ヶ村の鍛錬馬が三百頭、夜の森下の馬場に集合、町内を騎馬行進した後、遠乗りして太田神社に参拝。原町憲兵分隊と原町警察署員有志も乗馬で参加した。
十八年五月、広瀬均、原町分隊に赴任。(十九年七月東京へ転属)
○砂糖横領事件
十八年五月初旬。金房村出身の曹長で原町飛行場の炊事班長が、砂糖を横領する事件が発生した。
本人は、自分の結婚式にあたって砂糖を使用。当時の一般家庭では砂糖は統制品で入手困難であった。付近住民は羨望したが、実家では得意になって「息子はいくらでも都合がつくのだ」と自慢した。これが国防婦人会よりの密告で発覚。憲兵隊から飛行場に連絡して当人を出頭させ、阿部班長が取り調べたところ、本人も事実を認めた。営外通勤者で弁当箱に帰宅時に砂糖を詰めて帰っていたことが判明した。仙台師団軍法会議で陸軍一等兵に降格したうえ、除隊処分となり決着した。
○小池炭鉱重油事件
十八年六月初旬。鹿島町小池の炭鉱で、重油事件が発生。
亜炭を掘り出す小池炭鉱から重油が出るとの風評があり、鹿島町役場で戸籍調査を名目に聞き込むうち役場吏員が小池に重油が出るというひそひそ話しをしている。内偵の必要ありと判断され調査したところ、下関日通へドラム缶二百本が届いていることが分かり、職権で荷受伝票を調査のうえ、小池炭鉱に出向き、重油の有無を確認のうえ参考証拠品としてサンプル重油一升瓶二本を採取。分隊に持ち帰り、東北大学理学部に調査を依頼したところ、二週間後に「重油は炭鉱からの噴出物でない」との回答があった。陸軍燃料廠に、小池炭鉱から売り込み申請の有無を照会したところ、特に申請はなく、確実性のないものに興味はないという回答だったので、炭鉱責任者を正式に出頭させ、厳重注意のうえ始末書をとって放免した。
昭和十八年五月二十六日に陸軍士官学校56期生が卒業し、襲撃班32名が鉾田飛行学校原町分校に入校してきた。このうち29名が殉職および戦死した。生存したのは3名。
十八年七月十一、十二日、野馬追祭でカメラ携行禁止。
「カメラ携行厳禁、相馬野馬追祭
相馬野馬追祭は十一、二の両日展開されるが原町憲兵分隊では祭場地にはカメラ携行を絶対に禁じ、若しこれを犯した者は処分した上カメラを没収することになった(昭和18年7月8日福島民報)
○平鉄工組合贈収賄事件
十八年九月、贈収賄事件が発生。仙台憲兵隊本部から、宮城、山形、福島、三県にわたる陸軍造兵廠の贈収賄事件の捜査があり、事件総括は仙台憲兵分隊だった。原町憲兵分隊の担当は平鉄工組合の爆弾に付着するプロペラ製作に係る捜査だった。犯罪に関する資料は皆目不明。平警察署に出向し、司法課と特高課に行って、各主任と面接し、プロペラに関する鉄工関係の情報を求めたが、確証を得るには至らず、検討の結果、強制調査しかないと判断。駅前の平鉄工組合の退社時間前に乗り込んで身分を明かし、来意を告げて責任者に立ち合わせて保管金庫を開かせ、金銭出納帳を押収。陸軍造兵廠渡辺技術大佐と主計少尉に対する一流旅館や高級料亭における高額な接待を明確に記録している事実を突き止め、関係書類を行李いっぱい詰めて預かり、分隊に戻って調査した。
贈賄側の平鉄工組合長、関係市会議員、料亭女将など十名を原町憲兵分隊に連行して取調べ、一定の成果を挙げて決着した。
十八年九月中旬、赤井炭鉱で朝鮮人暴動の兆候あり出動。
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