昭和45年に出た「福島市史」第一巻の「原始古代中世」の書き出しから、こうある。
福島市を中心とする信達盆地は、昔どろうみであったという。それは古い伝承であり、人びとの心に深くくいこんだ昔語りであった
しかし、この物語が真実の福島市の前身であったろうか。(概説)
阿武隈川および、これに注ぐ諸川が、たびたび氾濫したことは事実である。近年では昭和十六年の大洪水で信達盆地が一望のどろうみと化し、新設されたNHK福島方法局が放送不能になったことは耳新しい事実であるが、こうした洪水によって生じたどろうみ…例えば享保八年(1723)八月の大洪水の印象が、そのころに編述されたという荻生徂徠の「福島妙音廟碑」の「どろ海伝説」を、まことしやかにしたきっかけではなかろうか。
そのうえ古歌に「信夫の浦」があり、これらが混然として新しい「どろうみ」伝説が発展したとも推定される。
科学的に証明したとおりで考古学上でも人類がのこした遺跡・遺物の上からも、そのような湖沼があったという証拠はない。
「信達古語名所記」が考徳天皇のころ(650年代)に陸地となり漸次干上がったことは、考古学の上では問題とならない。(梅宮茂)
信夫浦伝説
近世では、寛永十四年(1637)、享保八年(1723)などに大洪水があった。寛永の洪水では、保原附近を流れていた阿武隈川が西部に移り、ほぼ明治初年の流路をとるようになった。享保八年八月の大洪水では、岡部附近一帯が冠水し・・
有史時代において前述のようであったから。永い先史時代には大反乱がいくたびか反復されたに違いない。かくして方々に河跡湖や低湿地が所在して、信夫浦の伝説ができたものと思われる。
氾濫時には広い一時的湖沼ができたが、永年にわたって大面積の湖沼がこの氾濫原を占めていたことを証明する証拠は得られない。(安田初雄)
「ふくしまの歴史1 古代」という中学生用の副読本は、
福島盆地は昔海だったのか、信達盆地島盆地)は大昔、一面の泥海で、信夫山はその中に浮ぶ島だったと言い伝えられていますが、本当なのでしょうか」(47p)
と語りかけている。
「三千年前の縄文晩期のムラの遺蹟は余り知られておらず、当時のムラや米作りの様子は分かっていません」(91p)