市制百周年 福島の姿 宍戸二郎筆 平成十九年四月 97歳(明治43年生)

阿武隈川水防と市警防団の応援
 昭和十六年七月二十三日、阿武隈川の増水で氾濫の危機に瀕し、私ども警防団員は緊急招集を受けて、水防に従事して居た、水は刻々増水し、日中からの重労働に身体綿のように疲れ、もう動けない、そうなっても仕方ない、若しものときは上流に逃げたほうがよいか、下流がよいか等と語り合っていた時、福島市の警防団員が四十数人、各々空俵二表づつ背負って応援に来て呉れた。
 私達は勇気百倍、気力を取り戻し、努力の結果、何とか氾濫を食い止めたのであった。若しあの応援がなかったら恐らく氾濫はまぬかれなかったと思って居る。

 映画舘
 映画は大正舘・新開座等、四っつあり、新開座げは映画のほかに芝居なども見せた。テレビもらじおもなく娯楽の少ない時代であったから農家の休み日などには隣近所誘い合ってよく活動(映画)見に出かけたものである。当時はトーキーではないのでスクリーンの脇の暗がりに弁士なる者が居て映画の出演者の口に合わせる様にして声色を使う、剣戟の処などでは弁士が拍子木で机をパチンパチンと叩いたり、混戦の処などでは三味線をはげしく弾きまくると云った調子だった。坂東妻三郎、大河内伝次郎主演などと云うと喜んで見に行ったものであった。
 いつか数人で出かけた時、持ち込んだ殻付きのピーナツを暗がりで食べ、幕間に灯火がついてみると座席のまわりはピーナツの殻だらけ。マナー低い時代だったから、殻を拾い集めるでもなく、知らぬ振りしてソッと居場所を替えた事などあった。

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