目で見る相馬・双葉の100年

 P.23 牧師さんと
 明治後期とあるが、写っているのは大正時代の原町基督教会の牧師河村洋次郎である。デサイプル派のアメリカ人宣教師と、佐藤政蔵も写っている。美髯をたくわえた河村牧師はバプテスマのヨハネというあだ名で呼ばれ、当時有名だった名物牧師だった。若い女性は原町小学校の教師をして教会伝道を手伝っていた河村の娘だろう。

 P.24 徴兵検査
 パンツ着用であるから海水浴記念だろう。佐藤政蔵と友人たち。一人は柄パンツである。こんなものを着用していたら、帝国陸海軍の検査官はびんたどころではないだろう。徴兵検査は、ふんどしで行うのが鉄則である。
 明治33年に、渋佐海水浴場が開場している。その後、夏場になると野馬追祭りに招待した友人知己が毎年、政蔵を訪問している。そのうちの一枚だろう。明治33年に渋佐浜が海水浴場として整備されたので、たぶんこの年の直後であろう。

 P30.藤棚
 大正期とあるが、明治年間に発売の中村の絵葉書帳にこの藤棚の写真がすでに存在する。このセットに含まれる野馬追の写真が、明治45年の鉄道パンフレットに掲載されており、したがって、この藤棚の撮影も明治期であることが証明できる。のちの昭和9年ころの斎藤笹舟の冊子本の口絵にも、この絵葉書の藤棚の写真を使用している。

 P.35
 磐城無線電信局 鉄塔のある写真 大正10年頃とあるのは、昭和になってからの写真。

 P.37
 中段左 染色精錬室 大正9年とあるが、戦後である。
 中段右 原町紡織 大正9年とあるが建物ができたのは大正7年であり、原町紡織というのは組織上、名称が変更されただけの年なので、大正9年は単なる通過点にしかすぎない。つまり、この写真が大正9年である必然性はない。しかも、「明治31年に原町商業銀行の開行があり、製糸工場が設立されて近代産業が興るようになる」という説明だが、同行は明治41年にできた。

50 はらまち警察署
「幹部」というが、これで全員である。

56 橋を渡る 大正期 明治42年のもの。
 P58 P59
 鹿島町とあるが、これは原町の写真だ。

60 右下の「幟持ち」
また、相馬市中村とあるが、これは原町の写真だ。バックに堀川商店の看板あり。福島商業銀行や梅田薬局の仁丹の広告看板もみえる。
 右上の「一服」 という写真は大正期とあるが、明治の写真だ。
 左下の「原ノ町に入る」は大正末年とあるが、七十七銀行原町支店が写っているので調査要。
 左上 神輿 これは大正時代。ガマ印ハイトリ紙という広告がみえる。

61 さあ行くぞ
 相馬市・大正末期とあるが、これは明治42年に撮影された絵葉書セットの一枚。同じページの野馬追写真はすべて大正期と説明されているが、疑問である。

 P65. 原ノ町の町並み
 昭和初期とあるが、昭和14年のものだろう。P98の写真と高田勝巳商店の絵葉書のセットであるからだ。両方ともガラス乾板で現物を拝見したことがある。写真の品質としてみると、P98の写真と比較しても、夏の光線で、光量も露出も粒子の具合も同じなので、同じ昭和14年の夏の同時期の撮影と思われる。

 P.66
 この写真は、元原町町長の佐藤政蔵が昭和25年6年に発行した「歌のはらのまち」という冊子本の口絵写真として使用したもので、その当時の撮影による原ノ町駅前風景である。決して昭和初期ではない。
 銀杏並木は、駅前の運送業「丸通」の大橋友成氏が町に苗木を寄付したもので、昭和12年に植えられた。従って、昭和初期には写っているはずのないもの。

 P68 ただいま受信中 
 昭和初期と解説にあるが、これは大正10年の原町送信所の開所にあたって逓信省の許可を得て発売された絵葉書のうちの一枚である。

 P.92 鹿島町警防団 
94 洋服の子が少なくなっているのは衣料不足を反映」とあるが、昭和16年当時の平均的な服装だろう。

 P.98
 写真中央に写っているトラックは、野地商会が所有していたもので、昭和14年頃に撮影した。原町市史の口絵写真に掲載されているが、これには昭和14年と説明されている。野地商店の現在の当主によると、「(太平洋)戦争中は、もうトラックは走っていなかった。」という。強制的な官主導の運送会社の一本化で、手放したのだ。翌年の昭和15年には、自動車のなくなった原町に、なんと駅馬車が誕生した。野地運送店はこの馬車組合に加盟している。父親が所有していたこのトラックは軍に徴発されて、原町陸軍飛行場、軍需工場である原町紡織工場の以外に、昭和18年には原町に民間のトラックは存在しない。

 特攻隊を送る人々
 万朶隊を送る 現地フィリピンで編成された。
 鈴木邦彦 振武45隊 原町市とあるが、前線の写真である。
 神風特攻隊 昭和19年10月26日とあるが、25日である。

105 天皇皇后 昭和22年
106 日光浴 昭和23年ころ」とあるが、写っているのは将校ハウスである。兵士はここを使用できない。写っているのは将校で、兵士ではない。ねそべっているのはマッコイ中尉。撮影したのはチャック・ローランド軍曹で、昭和27年のこと。
 右の写真は説明にある「基地の入り口」ではなく、中庭である。主建築の正面にあたるアメリカ第五空軍基地のエンブレム(紋章)である。
 

124 小高駅 昭和42年6月

125 さよなら運転 昭和42年
 電化したのはたしかに昭和42年なのだが、貨物用のD51は翌年の昭和43年まで走っていた。1月末日の運転は高田保雄機関士が担当した。

P.127 新国道6号線
小高町・昭和41年」とあるが、この写真ははるか後年のもの。

141 無線塔解体 昭和57年
これは昭和56年中の写真である。

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