「原町

本組沿革は、堀川組頭の厚意により極めて貴重なる文献を豊富に提供されたことを断っておきたい。ただ惜しむらくは各組同様紙数の制限による一事である。但し古文は総論中に加へるつもりである。
秩序なかりし旧幕時代の火消より、近代的消防への第一歩は、中村町の大火、及び明治十四年、十五年のおける本町の火災の影響は見逃し得い(注。得ない)、即ち、此の両度の火災直後に、秩序と設備ある消防組を組織せよと云ふ声は、実に苦い体験から生める住民の叫びであった。その結果が、鈴木龍助を組頭とする近代色の消防組出現となったのである。然し、此の組織でさい(さえ)も、それ一度び(ひとたび)皮相の観を以てすれば、名実伴なはぬとの評を如何とすることが出来なかったほど、極めて幼智(幼稚)なものであった。従って、此の時代、即ち漠然たる消防形態に対して、吾人は殊更に之を明瞭化する煩を避けた方が妥当であると信ずる。勿論、当時の内容に至っては知るに由なく、徒らなる口碑は採らぬこととする。
勅令消防は、明治二十七年十月六日、当時村制であった村会の決議によって組織されたもので、四部編成であった。
大正七年四月二十日高野順方の火災には、時の佐藤組頭焼壁の下敷となり、再起不能になられたことは惜しみても余りある沿革史上の恨事である。
大正十一年の大火には、県当局より救助金として千六百二十八円給与され、遠藤豊外五十六名に伝達された。現在の屋上制限組合は此の時に組織されたものである。更に翌十二年には町会の決議に基いて組員三十名を増員し、即ち元組織に至って居る。
警備費状況
一、明治二十七年度 金二十九円二十三銭八厘
一、昭和六年度   金四千四百六十円
所有ポンプ状況
一、ガソリンポンプ 三台
一、腕用ポンプ 六台
組織状況
一、総人数 百八十四名(四部制)」

参考までに、大正七年に出版された岡和田甫編、発行の「原町地方紹介」を次に掲げる。

消防

当町消防組は現在組員百二十七名にしてポンプ六台、鳶口三十三挺、斧六挺、梯子五挺、纏ひ三本を備ひ、毎年十二月初日より翌年三月末まで夜警を行ひ、火災期の警備に当る。近来当所に火災の多からざると罹災損害額の少きとは即ち組員の職務に忠実なるに依る、現在幹部左の如し
組頭佐藤貫良、副組頭石井栄吉、小頭高橋柳助、同遠藤勤、同木村清作、同池田豊治、同大松米治。
明治十五年二月八日当町大火災あり、遠藤周輔、鈴木龍助、門馬直記、今村源八、小林助太郎、佐藤純一郎の諸氏相謀り私設消防組を組織し、鈴木龍助氏組頭となる、之を当町消防組の創始と為す、爾来今村源八、松本良七、佐藤新太郎、桜井政員、佐藤政蔵、佐藤徳助氏等順次組頭となり以て現組頭に至る、現組頭佐藤貫良氏は予備陸軍薬剤官にして現に当町軍人分会副会長たり、常に身を以て衆を率ゐ、屡(しばしば)危険を冒して奇功を奏せり、大正七年四月二十日当町高野医院失火の際、重傷を負ひ一命を危うせり、又た以て其の平生を知るべし。

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